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あつじ所長の漢字漫談17 「麦」はどこからやって来た

2017.11.29

あつじ所長の漢字漫談17 「麦」はどこからやって来た

 我が家では数年前から、ご飯の中に麦を少し混ぜて炊くようになりました。別に「貧乏人は麦を食え」(若い人はご存じないでしょうが、昭和30年代には、経済対策についてこのように放言したとされる政治家がいました)を実践しているわけではなく、もっぱら健康管理上の理由なのですが、麦にもまた格別の味わいがあって、コメの味にはかなりこだわる私も、とりたてて文句を言わずに、おいしくいただいています。

 「麦」という漢字が古くは「麥」と書かれていたことは、年配の方にはよくご存じでしょう。それで「コウジ」には「麴」と「麹」の二通りが、京都の地名には「麩屋町」と「麸屋町」の二通りがあるのですが、それはさておき、ムギはさらに古い時代では、単に「來」という字で書かれていました。

 「麦」の旧字体である「麥」は、その《來》の下に《夊》(「すいにょう」という部首で、足の象形文字)を加えた形で、ここで足を表す要素が加えられているのは、根が地面によく張るようにムギの芽を足で踏みつける、「麦踏み」という行為を表しているからで、そこから中国では「麦踏み」が大変に早い時期からおこなわれていたことがわかります。



 「來」という漢字はもともと、ムギが実ってノギを大きく左右に張り出したさまをかたどった象形文字でした。しかしこの字は古代文字資料の中でも実際にはほとんど「往来」の「来」、つまり「やってくる」という意味で使われています。もともとは穀物のムギがノギを張っているさまをかたどった文字だった「來」が、ほとんどの場合「やってくる」という意味の動詞に使われるようになったのは、文字学でいう「仮借(かしゃ)」、すなわち当て字の方法によります。要するに「やってくる」という動作を表したことばと、畑にできるムギを意味することばがたまたま同音だったため、ムギの字を借りて「やってくる」という動作を表現したというわけです。「やってくる」のような抽象的な意味を表す動詞などは象形文字化しにくいので、こうして同じ発音をもつ既製の漢字を当て字として使って表したのでした。

 しかしムギは重要な作物と意識されたために、「やってくる」から「ムギ」への意味変化について、別に一種の伝説が伝わっています。



 中国最古の詩集とされる『詩経』の「思文」(しぶん)という詩に「我に來牟(らいぼう)を貽(おく)る」という句があって、その注釈によれば、暴虐な政治をおこなって人民をくるしめた殷を倒し、新しい王朝を作って理想的な世の中を実現した周の功績を天がめでて、いわばそのご褒美としてムギという穀物を地上にもたらしたと伝えられています。

 周はもともといまの西安からはるか西の方で遊牧生活を営んでいたのですが、やがて農耕を覚えて定着しはじめた頃から勢力が強大になりはじめました。それでムギという新種の作物が建国神話に結びつけられているのですが、しかし周より前の文字資料である甲骨文字にすでに「來」があるから、周の建国より早くからムギが栽培されていたことは確実で、周の建国とともにムギが「天からやってきた」という話はとうてい信じられるものではありません。

 ただしムギは地中海東部を原産とし、中国にははるか西の方から伝わってきたと考えられるので、「遠いところから来た穀物」という意味で、ムギを「來」という文字で表現した可能性は大いに考えられます。そしてもしもそうならば、中国でのムギの由来は次のように想像されます。

 まだ文字がなかった時代に、最初に「ライ」と発音される言葉があって、その言葉は「やってくる」という意味を表していました。やがて西の方から新しい重要な穀物が「やってきた」ので、その穀物のことを「ライ」と呼ぶようになりました。そしてその穀物が実ってノギを張っているさまを象形文字にして「來」という漢字を作ったのですが、それまで「やってくる」という意味を示す文字がなかったので、新たに作った穀物の象形文字で、「やってくる」という意味をも表した、というわけです。

 遠くからすばらしいものがやってきたら、誰だって嬉しいにちがいありません。ムギという穀物がやって来て古代人は詩を作るほど喜びましたが、現代でも遠くから友人がやってくればとても嬉しいものです。まさに「朋有り遠方より来たる」で、「また楽しからずや」です。この次に遠来の友人がやって来れば、「麦飯とろろ」でもごちそうすることとしましょう。


《参考リンク》
漢字ペディアで「麦」を調べよう。
漢字ペディアで「来」を調べよう。

《著者紹介》
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阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。

《記事写真・画像出典》
・記事上部:所長宅のご飯に混ぜられる麦 著者撮影
・記事内:甲骨文字の麦 『甲骨文字典』
・記事内:『詩経』周頌 思文 汲古閣刊本『詩経』毛伝鄭箋

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