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あつじ所長の漢字漫談20 正月に思う

2018.01.10

あつじ所長の漢字漫談20 正月に思う

 あけましておめでとうございます。今年も所長の漢字漫談をどうぞよろしくお願いいたします。

 祇園祭で知られる八坂神社のすぐ近くにある漢字ミュージアムの前は、お正月のあいだ、初詣にこられた大勢の方でとても賑やかでしたが、このお正月のことを、英語ではいったいどのように表現するのかと思って和英辞典を調べてみたところ、JanuaryとかNew Yearという表現しか出てきませんでした。

 それで正しいじゃないか、なにを当たり前のことをいってるんだ、と思われるかもしれませんが、しかしJanuaryは「一月」という月、New Yearは「新年」という意味にすぎず、それに対して日本語の「お正月」という言い方には、去年までの生活とは気持ちを切り替えて、ぐっと心を引き締めた特別な月、というニュアンスがあって、JanuaryやNew Yearでは、その訳語としてしっくりきません。「寝正月」や「正月気分」、あるいは「盆と正月」という時の「正月」を、「一月」や「新年」ということばで言い換えることはおそらく不可能だろうと思います。

 このように私たちが一年の最初の月であるお正月に、心を新たにして過ぎ去った年を反省したり、できそうもない大きな目標を建てたりするのは、やはりそれが「正しい月」と書かれるからなのでしょう。

 この「正」という字にはちょっと面白い使い方があって、ちょっとした選挙やアンケートの集計などで、数を五ずつ記録するために使われます。黒板に「正」という字を書きながら、クラス委員などの選挙の開票を進めた経験がある人も、きっとたくさんおられるだろうと思います。

 いまさらいうまでもなく、日本人には小学校のころからおなじみの方法ですが、しかし外国にはそんな方法がなく、ヨーロッパからきた留学生がこの「正」を使って開票を集計している光景を見て、漢字とはなんと便利な文字だと驚いていました。たしかにこれは、ローマ字やハングル、あるいはロシア語などを書くキリル文字などにはできない芸当だと思います。

 「正」はちょうど五画で、また直線だけで構成されているので、選挙の集計などには非常に便利な漢字です。しかし五画の漢字は別に「正」だけではなく、ほかにも「田」や「白」「本」「左」「玉」など小学校の低学年に配当されている学習漢字がほかにいくつもあります。それなのに集計では「正」だけを使い、それ以外の漢字を使わないのは、やはり「正」という漢字がもっている「ただしい」という意味が、そこに大きく作用しているからにちがいありません。

 しかし古代における「正」はそんなきれいな漢字ではなく、実は非常に血なまぐさい、いまわしい文字でした。



 「正」という形から上の横線をとると《止》になりますね。この《止》は人間の足跡をかたどった象形文字で、いまの日本語や中国語ではこの字を「とまる」という意味で使いますが、もともとはそれと正反対の「すすむ」という意味を表していました。だからこそ「歩」という字の上にも《止》があるわけです。



 そして現在は「正」と書かれる形ので上にある《一》の部分は、古くは《□》という形になっていました。

 この《□》は、土の壁で囲まれた集落を表しています。古代の中国では、人々が暮らす集落は敵や野獣の襲撃を防ぐために、土を高く積んで固くつきかためた壁で四方を囲まれていました。

 古代の城壁はいまも部分的に残っていて、たとえば河南省の省都である鄭州市の中心部には、周囲が7000メートル近くもある大きな城壁がほぼ完全な形で残っています。この城壁は高さがだいたい5メートルくらいあります。河南省文物研究所の調査によれは、これは殷代初期から中期にかけての遺跡とされ、推定年代はだいたいB.C.1600~1400年くらいとのことです。



 このような壁で四方を囲まれた場所を山の上などから見ると、□のような形に見えました。「正」の古代文字に含まれている《□》は、まさにそんな壁に囲まれた集落であり、その下にある《止》は、その集落に向かって、人が進んでいる形を表しています。

 人が進む目的は、攻撃でした。つまり「正」とは敵が暮らしている街に向かって攻撃すること、すなわち戦争をしかけることを表す漢字でした。

 戦争はもちろんいいことではありません。しかし人類の歴史は同時に戦争の歴史であったことも、悲しい事実です。そして戦争では、いつの時代でも勝った側が自分を正当化します。「勝てば官軍」で、勝者が正義を獲得します。だからこの字がやがて「ただしい」という意味をもつようになり、そしていつのまにか「正」が本来もっていた「戦争」という意味がしだいに忘れられるようになったので、あらためて「道路・行進」を示す《彳》をつけた「征」という漢字を作って、本来の意味を示すようになりました。つまり「正」は「征」の古い漢字だった、ということです。

 年末からお正月にかけて、海外旅行に出かけたという方もたくさんおられると思います。海外に出ると珍しい食べ物や日本にはない食材などがあるので、どうしてもふだんよりたくさん食べてしまい、おなかをこわしてしまうことも珍しくありません。だから海外旅行に出かける多くの日本人のバッグの中に、ラッパのマークでおなじみの整腸剤が入っていることがよくあります。

 あの薬はしかしもともと戦争のために作られたもので、日露戦争の時に、「露西亜」(ロシア)を「征伐」するために外国に行かされる兵隊さんが、水の悪い土地でおなかをこわさないための丸薬、という意味で「征露丸」と命名されました。だから商標に日本軍が使った進軍ラッパが描かれているのですが、しかし太平洋戦争の結果、ロシアを含むソ連が日本に対する戦勝国となりました。こうなると、まさか露国を征伐するための丸薬と書くわけにいかないので、それで戦後は「征」を「正」にかえて「正露丸」と書かれるようになりました。

 さぁお正月の暴飲暴食もこの辺にして、今年もあまり整腸剤を必要としない、健康的な食生活を心がけましょう。

《参考リンク》
漢字ペディアで「正」を調べよう。


《著者紹介》
atsuji_muse.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像
阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。
●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
 

《記事写真・画像出典》
・甲骨文字「止」・「正」の図版…『甲骨文字典』 北京工芸美術出版社
・ 殷代の城壁…著者撮影

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