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あつじ所長の漢字漫談30 「珍しい貝」を表す漢字 ― アイデア漢字の「衝突」

2018.05.10

あつじ所長の漢字漫談30 「珍しい貝」を表す漢字 ― アイデア漢字の「衝突」

 10年以上も前のことですが、徳島県の文化講座から講師に招かれて、短期間のあいだになんども徳島市に出張する機会がありました。鳴門特産の桜鯛やワカメなどで知られるように、徳島県は水産資源の豊富な地域で、さらに特産のサツマイモ(鳴門金時)やスダチなども絶品ですから、食いしん坊の私は出張のたびに、徳島での食事を大いに楽しんだものでした。

 ホテルに荷物を置いてから街に出て、今夜は何を食べようかなと徳島駅前の飲食店が並んだ通りでおいしそうな店を物色していると、めずらしい漢字を書いた看板が目にとまりました。店の名前は「かいきち」というようですが、写真のような《貝》ヘンの漢字を見たのはその時がはじめてでしたので、さっそく入ってみました。そこは瀬戸内海の海産物を手頃な価格で提供する良心的な店で、名物の「貝の刺身の盛り合わせ」を何人かの先客が楽しんでおられましたが、それよりも私はむしろ店名の漢字が気になって、注文もそこそこにご主人に店名の由来をたずねたところ、以下のような答えが返ってきました。

 ウチの店は海産物の中でも特に貝類にこだわっていて、他の地方ではめったに食べられない珍しい貝類をふんだんに用意している。でも通常の「貝」という漢字ではその意気ごみが表現されないので、それで《貝》と《珍》の右側を組みあわせた漢字を作って、それで「カイ」と読ませることとした。この漢字はウチの店独自のオリジナルだけど、パソコンではもちろん、一般の印刷屋にもない漢字だから、店名を書いた葉書や名刺を作るのにはかなり経費がかかる。それでも、少々カネがかかっても、この思い入れをなんとか表現したいから、こまかいことはいわないようにしているんです。さぁ、ウチの珍しい貝をたくさん食べてくださいな…。

 店名に使われているのは、《貝》と《珍》の右側の部分を組みあわせた文字で、「珍しい貝」という意味を表すアイデア漢字だったというわけです。そしてそのお店には、普通の居酒屋や寿司屋にはない珍しい貝がたくさんあって、おいしくいただくことができました。

 ところが出張から帰宅してから調べてみると、ご主人にはまことに気の毒な話ですが、その漢字は「かいきち」ご主人のオリジナルではなく、11世紀の中国で作られた字書にすでに見える、れっきとした漢字なのでした。



 この字を掲載するのは北宋の第4代皇帝仁宗の治世、宝元2(1039)年に(異説もあります)、宋祁(そうき)や丁度(ていど)らが編纂した『集韻』という韻書(発音引きの字書)で、序文には5万3千字あまりを収録すると豪語する、中国でも指折りの大きな字書です(最近の研究によれば、実際の収録字数は3万2千字ほどだそうです)。

 それでも3万字といえばものすごい数で、『集韻』は当時存在したと思われるすべての漢字を収め、さらにその字音を網羅することを目的として作られたものでした。

 そんな『集韻』には、日常的にはほとんど使われない珍しい漢字が大量に収められているので、《貝》と《珍》の右側をあわせた珍しい漢字が収められてもまったく不思議ではありません。しかし図版の3行目にあるように、『集韻』ではこの字は「賑」の異体字で、「富」という意味であるとされていますので、残念ながら「珍しい貝」という意味ではありませんでした。

 私たちの目の前には、5万とも8万ともいわれる膨大な量の漢字がありますが、しかしその起源を考えれば、どのように複雑な漢字であっても、それぞれの漢字は、はるか遠い昔に、あるいは比較的新しい時代のいつかに、どこかの誰かが何かの必要があって作ったものであることはまちがいありません。その漢字が作られたのがいつで、どこのだれが作ったのはほとんどの場合わかりませんが、実際には漢字のほとんどは意味と発音の要素を組みあわせた「形声文字」であって、甲という土地にいるAさんと、乙という土地にいるBさんが、異なった時代に、相互にまったく干渉なく、意味と発音の要素を組みあわせてまったく同じ形の漢字を作ることは、大いにありうる話です。

 ある文字を作る過程や、その漢字が表している意味や発音などはちがうけれども、見かけ上の形がまったく同じの漢字が作られることを「字形の衝突」といいます。

 徳島市で海産物を中心に居酒屋を経営していたご主人(あいにく名前を伺いませんでした)は、おそらく『集韻』という韻書など見たことがなく、もちろんそこに「賑」の異体字として掲載されている《貝》+《珍》の右側という漢字があることなど、想像すらしなかったことでしょう。そしてご主人は独自の見解と見識にによって、「珍しい貝」という意味を表すのアイデア漢字を作られました。それがたまたま『集韻』に載っている同じ形の漢字と「衝突」してしまったというわけですね。

 『集韻』では問題の漢字は「賑」の異体字とされていますが、この「賑」を使った熟語に、日本語でもしばしば使われる「殷賑」があって、「にぎやかで活気がある」という意味ですから、居酒屋の店名に使うにも決して悪い意味ではありません。

 この次に徳島に行く機会があれば、ぜひとも「かいきち」に立ち寄ってご主人にその話をしてみよう、そうすれば名物の「貝刺し盛り合わせ」に、きっといろいろおまけがつくだろうと欲張ったことを考えましたが、あいにくそれからしばらく行く機会がなく、昨年やっとのことで徳島にいったら、大変残念なことに、そのお店はすでにありませんでした。

《関連リンク》
漢字ペディアで「貝」を調べよう
漢字ペディアで「珍」を調べよう

《著者紹介》
atsuji_muse.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像
阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。
●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
 

《記事写真・画像出典》
記事上部:徳島居酒屋「かいきち」 著者撮影
記事内部:『集韻』 述古堂影宋刊本
     

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