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あつじ所長の漢字漫談32 谷と穀の関係――「雪の大穀」ってなんのこと?

2018.06.05

あつじ所長の漢字漫談32 谷と穀の関係――「雪の大穀」ってなんのこと?

 標高2450mの高地にある室堂平(富山県)は世界屈指の豪雪地帯で、中でも「大谷」というところは雪の吹きだまりになる「大きな谷」で、厳寒期には積雪がなんと20mを超えることもあるそうです。

 山の上に遅い春がようやく芽ばえだすころ、深い雪におおわれた谷間に「立山熊太郎」という550馬力のパワーをもつ除雪車が出現し、道路を少しずつ掘りだしていきます。かつては長いポールを目印に掘ったそうですが、いまはGPSを使い、およそ1ヶ月ほどかけて除雪して道を通すと、両側には見あげるような巨大な雪の壁「雪の大谷」ができあがります。

  この雪の壁のあいだを歩く「雪の大谷ウォーク」は、長野県の白馬から黒四ダムを通って富山県の立山に向かう大人気コース「立山黒部アルペンルート」の中でも、この時期限定の超人気スポットで、厳しい自然条件をものともせず毎年大量の観光客が押しかけます。

 かく申す私も先日機会があって、かねてより念願だった「立山黒部アルペンルート」の旅に出かけました。長野県の白馬山麓に泊まり、起点となる扇沢からトロリーバスに乗ると20分ほどで「黒四ダム」に到着します。昭和30年代に作られたこの巨大なダムは、映画「黒部の太陽」に描かれ、近年ではNHKの「プロジェクトX」でも取りあげられたのでよく知られていますが、大自然を相手に人間が格闘してきた驚くべきあかしであり、日本の戦後復興のシンボルとして私たちの胸をうちます。

 私たちのツアーでは、黒四ダムあたりまでは小雨ながらも時折青空ものぞいていて、北アルプスもかいま見えていました。こんなお天気なら「雪の大谷」も数メートルの雪の壁の中を散策できるかと期待していたのですが、ケーブルカーとロープウェイを乗り継いで室堂平まで来ると、5月中旬というのに気温は氷点下⒉度、あたりは一歩外に出るのもためらわれるほどの吹雪でした。

 野外は一面真っ白で、数メートル先も見えないという状況です。こんなときは危険ですからもちろん「雪の大谷」散策コースは開放されず、あちらこちらに「本日の大谷ウオークは中止である」旨の掲示が出されていました。観光客はがっかりですが、相手が自然であるだけに文句も言えません。それでもロッジのまわりには少しだけ歩けるところがあり、またそこから雪の回廊を抜けて立山に向かうバスの中からは、雄大な光景を鑑賞することができました。

 最近の日本はどこでもたくさんの外国人観光客でにぎわっており、この立山黒部アルペンルートももちろん例外ではありません。特に自国内では雪の高山の光景を見ることができない台湾や香港、タイなど東南アジアから、おどろくほどたくさんの観光客がこのルートに来ておられました。

 そんな状況ですから、本日の大谷ウォークが中止であることを示す掲示にも、日本語のほか英語と韓国語、中国語が書かれており、中国語には簡体字と繁体字(旧字体)の二タイプがありました。

  これがその写真ですが、ここで旧字体版中国語に「本日“雪之大穀漫歩”中止」と書かれていることに注目してください。すぐ上にある中国語で「雪之大谷」と正しく書かれている「大谷」が、旧字体版で「大穀」となっているのは、単純な間違いではなく、実はここに漢字簡略化をめぐるやっかいな問題がひそんでいるのです。

 中国語を勉強した経験のある人なら、いまの中国語では飛行機のことを「飞机」といい、また携帯電話のことを「手机」ということをご存じかもしれません。この二つの単語に出てくる「机」は「つくえ」という意味の漢字ではなく、「機」の簡体字として使われています。つまり「飞机」は「飛機」であり、「手机」は「手機」と書かれているのです。

 これは、ある文字をそれと同音の別字で置き換えてしまう、「同音代替」という方法で作られた簡体字なのです。つまり中国語では「機」と「机」がまったく同じ発音なので、「機」のような複雑な漢字を使わず、それと同じ発音でもっと簡単に書ける「机」を代わりに使うこととした、というわけです。

 「機」は難しいから簡単な「机」で済ませてしまうというのは、日本人から見ればまことに大胆な発想と思えます。そんなことをして中国人は読みまちがったり混乱したりしないのか、とついつい心配したくもなりますが、「手機」でも「手机」でも声に出して読めばどちらも同じ発音になるので、実際に意味を取りちがえることはありません。それは、かつての日本語で「車輛」とか「交叉点」と書いていた単語がいま「車両」とか「交差点」と書かれるのと、実はまったく同じことなのです。 そしてこれと同じように、今の中国語では「穀」という漢字が同音の「谷」で書かれます。「穀」と「谷」はまったく同音で、日本語の音読みでもどちらも「コク」になるので、「谷」が同音の「穀」の簡体字とされるわけです。

 山が海にせまっている地形の日本ではどこにでも谷間があり、「渋谷」や「四谷」のように大都会のど真ん中にも谷間があります。

 そんな日本人にとってなじみ深い「谷」が、いまの中国語では「穀」の簡体字としても使われます。

 ここに掲げた絵は、明代に描かれた絵巻物「明憲宗行楽図」に登場する人物で、元宵節(旧暦正月15日、新年最初の満月の夜)におこなわれる民間の行事を宮中の役人が扮装して皇帝(成化帝、在位:1464年 - 1487年)に見せているところが描かれていますが、この人物がもっている旗には豊作を祈願することばが「五谷豊登」と書かれています。穀物が豊作であることをいう「五穀豊登」が「五谷」と書かれていることから、「谷」を「穀」の簡体字として使うことが500年以上も前の明代からおこなわれていたことが、この絵巻からわかります。

 雪の大谷ウォークが中止になったことを知らせる掲示で「大谷」が「大穀」と書かれているのは、「谷」が「穀」の簡体字として使われることによって書かれたにちがいありません。しかしそれはとんでもない間違いです。「大谷」の「谷」は「たにま」という意味で使われていて、コメとかムギのような穀物ではありません。アメリカで大活躍している二刀流の野球選手は「大谷」さんであって、「大穀」さんではぜったいにありません。

 ではこの掲示はいったい誰が翻訳したのでしょうか?

 「谷」と「穀」を日本人なら絶対に混同しませんし、香港や台湾など、いまも旧字体を使っている人も、「谷」と「穀」と意味によって正しく使い分け、ぜったいに混同しません。

 だからこの「大穀」の掲示は、中国大陸の簡体字政策のもとで教育を受け、以前は「穀」という字形など見たこともなかったのに、ここ10年ほど中国大陸の随所に「繁体字(旧字体)ブーム」がおこり、それまで「谷物」と書かれていた「こくもつ」を繁体字では「穀物」と書く、ということを知った人が、「谷は穀の簡体字だ」と単純に考えて翻訳したものにちがいありません。漢字の本家である中国に、いま驚くべき現象が起こりつつあるようです。

《関連リンク》
漢字ペディアで「谷」を調べよう
漢字ペディアで「穀」を調べよう

《著者紹介》
atsuji_muse.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像
阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。
●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
 

《記事写真・画像出典》
記事上部:バスの車窓から見る雪の大谷 著者撮影
記事中:雪の大谷ポスター 著者撮影
    散策中止掲示 著者撮影
    明憲宗行楽図 沈従文『中国古代服飾研究』 香港・商務印書館
 

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