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あつじ所長の漢字漫談48 韋編三絶

2019.03.27

あつじ所長の漢字漫談48 韋編三絶

著者:阿辻哲次(京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長)

漢字ミュージアムの甲骨文字の展示 漢字ミュージアムは、まだ歴史が浅いので、古代文化に関する「お宝」はほとんどありませんが、そんななか、唯一といってもいい文化財として、最古の漢字である「甲骨文字」が2階に展示されています。これは世界的に著名なミュージアムである東京・駒込の(公財)東洋文庫が所蔵されるコレクションの一部をご厚意によってお貸しいただいているもので、開館以来これまでに数回展示替えをさせていただいています。

 「甲骨文字」とは、古代中国の殷時代(正しくは「商時代」)に、国家の運営方針や王の行動に関する神さまのお告げを知るために占いをおこない、その内容と結果を、占いに使った亀の甲羅や牛の骨などにナイフで刻みつけたもので、いま見られる最古の、だいたい3000年ほど前の漢字です。

 いっぽう私たちが文字を書くのにいまもっともよく使っている紙というメディアは、現在の研究では紀元前100年前後、つまり今から2000年あまり前に発明されたものと考えられます。つまり漢字の歴史が3000年以上あるのに対して紙の歴史はだいたい2000年ですから、紙がまだなかった時代に、漢字は約1000年間にわたって使われていた、ということになります。では紙がないころに、漢字はいったいなにに書かれていたのでしょうか?

 紙の発明前に、中国で文字を書くのに使われていた素材は「甲骨」のほか青銅器、それに石碑などがありますが、もっともよく使われたのは、竹や木を細長く削った札で、それを「簡」と呼びます。いまも使われる「書簡」ということばは、紙がなかった時代の手紙が木や竹の札に書かれていたことの名残で、実際によく使われたのは長さ23センチ(秦から漢の時代での1尺)、幅が5ミリから1センチ前後の細長い札でした。竹で作られた札を「竹簡」(ちっかん)、木で作られた札を「木簡」(もっかん)といいます。なお漢字ミュージアムの1階には、地中から発見された竹簡や木簡を原寸大に復元した模型が展示されていますので、実際のもののイメージをつかんでいただけます。

 古代中国で文明が栄えた地域は温帯に属するので、竹や木が容易に手に入りますし、それを文字記録用の札に加工するのも簡単でした。だから竹や木は非常に早い時代から文字を書くために使われたのですが、植物からの加工品は甲骨や青銅器、あるいは石などとちがって地中で腐りやすいために、古代に使われていた実物が発見されにくく、それらがいったいいつ頃から文字を書くために使われだしたのかは、正確なことはまだはっきりとわかっていません。

 ところで竹と木では、文字を書くための素材としてはじめに使われたのは竹だったと考えられます。というのは、木簡であれ竹簡であれ、もっともよく使われたのは幅が1cm前後の短冊状のものですが、竹には丸みがあるので、文字が書けるような平らな札を作るには、幅をできるだけ狭くしなければなりません。もし幅を広くとれば、できる札が弓状にそった形になり、文字の記録には不便になってしまいます。いっぽう、もし最初から木を加工して文字が書ける札を作るのなら、木からはさまざまな形の札が作れますから、わずか1行か2行しか書けないような狭い札ではなく、もっと広い、何行も書けるような板を作ることができます。しかし現実には、わざわざ狭い幅に切り取った木簡が多数発見されています。そこからおそらく、木簡はもともと竹から作った札を模倣したものであり、木簡は竹簡の代用品として誕生したものだった、と考えられます。

 木簡に使われた樹木は、居延や敦煌などシルクロード地帯から発見されたものを分析した結果では、ヤナギやポプラが多く使われているそうです。この2種の木は中国の北方に広く分布しており、木の地肌が白く、墨の吸収もよいことから、文字を書くための素材とされたのでしょう。

 この竹簡や木簡では1本に書かれる字数は、文字の大小にもよりますが、一般的にはだいたい20字くらいでした。もちろんもっとたくさん書きたければ札を長くすればいいわけで、実際に50センチくらいの長い簡も発見されていますが、どんなに長くしても書ける字数には限界があります。だから長い文章を書くときには何本かに続けて書き、それを順番に並べて、紐で綴りあわせるという方法が採られました。

 甲骨文字の「冊」これが中国の書物でのもっとも古い形で、この形から「冊」という漢字が生まれました。こうして作られた書物は、端からクルクルと巻いて保管されました。これが書物を数える単位として使われる「篇」で、「篇」に竹カンムリがついているのは、もともと竹を素材としたことによります。それがのちに絹や紙に文章を書くようになり、それを呉服の反物のように巻いたものを「編」という字で表しました。

 ある書物を何度も繰り返して読むことをいう「韋編三絶」(いへんさんぜつ)ということばがあります。最近はほとんど使われなくなりましたが、このいい方はもともとこのような書物の作り方から出た表現でした。

綴じられた木簡 孔子は晩年に占いの理論と方法を記した『易経』を読むのを好み、何度も何度も読んだために、木簡(あるいは竹簡)を綴じてあった紐がしばしば切れた、という話があります。これが「韋編三絶」の故事で(話は『史記』孔子世家に見えます)で、「韋」とはなめし皮のことです。孔子は愛読していた『易経』を、普通の麻ひもではなく丈夫ななめし皮で綴じていたのですが、それでも「韋」が三度もすり切れたというのですから、よほどよく読んだのでしょう。

 ただしこれはあくまで伝説であって、実際になめし皮で綴じられた書物が発見されたことはこれまで一度もありません。

≪参考リンク≫

漢字ペディアで「韋」を調べよう
漢字ペディアで「編」を調べよう
漢字ペディアで「韋編三絶」を調べよう


≪著者紹介≫

阿辻哲次先生
阿辻哲次(あつじ・てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。

●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
 『角川新字源』の装丁

≪記事写真・画像出典≫

・冊書の模型    著者撮影
・甲骨文字の展示  著者撮影
・甲骨文字の「冊」 甲骨文字典 北京工芸美術出版社
・綴じられた木簡  二玄社・法書ガイド『竹簡・木簡・帛書』

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