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あつじ所長の漢字漫談53 新元号「令和」を考える 第4回

2019.05.15

あつじ所長の漢字漫談53 新元号「令和」を考える 第4回

著者:阿辻哲次(京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長)


【いよいよ新元号「令和」の時代が始まります!漢字文化研究所のあつじ所長が、4回にわたって「令和」について考えます。今回は最終回の第4回「「令」の下は《卩》と《マ》のどちらが正しいのか?」です。】


<リンク>
第1回「出典を『万葉集』とすること」
第2回「令和をレイワと読むことについて」
第3回「「令」とはどういう意味の漢字か」


第4回「令」の下は《卩》と《マ》のどちらが正しいのか?

 官房長官が「令和」と書かれた額を掲げている写真がすっかり有名になりましたが、あの額では下を《卩》にした「令」が書かれていました。しかし世間にはめざとい人もいて、発表からまだ1時間もたっていない段階で、私にメールで「あの字はまちがっている、《卩》の上は短い横線でなければならないのに、政府が発表したものは点になっている」と指摘してきた人がいました。ほかにも、世間にはきっと「あの字はおかしい、「令」は《𠆢》の下が《卩》ではなく《マ》の形でないといけない」と考えた方もたくさんおられたことと思います。


 ことは元号に使われる漢字ですから、その「正しい字形」をめぐってさまざまな議論が出るのも当然だと思いますが、ではその議論は、いったいどちらが正しいのでしょうか。


 これについては、漢字ミュージアムの「漢字カフェ」欄に、4月11日付けで「新元号発表!「令」の正しい書き方は?」と題するコラムが掲載され、漢字検定試験の採点での基本的な考え方が明示されていますので、ご参照いただければ幸いです。


 さて「令」についての詳しい考証はあとにして、まずいくつか「令」の字形を見ていただきましょう。『康煕字典』に掲載されている「令」
はじめに『康煕字典』(1716年)に見える「令」を掲げます。『康煕字典』とは清朝第4代の康煕帝(愛新覚羅玄燁、1722年没)の命令で作られた、約4万7千字を収める大きな漢字字典で、皇帝の命令で作られたという経緯から、それ以後の中国で漢字についてもっとも正しい基準を示す字書と考えられました。すなわち、漢字の形や音、あるいは意味はすべて『康煕字典』に書かれているのが正しいと考えられ、その認識がやがて日本や朝鮮などに伝わり、近年にいたるまで『康煕字典』が東アジア全体で漢字の規範を示すもっとも権威的な字典とされました。


 『康煕字典』には清の宮殿で印刷されたものや、江戸時代の日本で印刷された和刻本など何種類かの版本があり、字形が版本によって微細に異なりますが、すべて明代の木版印刷で広く使われていた「明朝体」で印刷されています。そして明治時代に金属活字による印刷がはじまった時、活字は『康煕字典』に載せられている明朝体の字形をモデルとして作られました。次の図版は戦前の日本の活字会社や大きな印刷会社で使われた字形を文字ごとに一覧表にした『明朝体活字字形一覧』(文化庁国語課編)で、ご覧のようにすべての漢字が『康煕字典』と同じ形になっています。つまり戦前の日本の漢字は、『康煕字典』に載っている明朝体の形にあわせて印刷されていたわけです。『明朝体活字字形一覧』


 この明朝体の金属活字が戦後もさまざまな印刷に広く使われ、さらに技術の進歩によって活版印刷からコンピューター印刷に変わっても、文字はやはり「明朝体」で印刷されました。いま皆さんがお使いのパソコンに搭載されている「◎◎明朝」というフォントは、いうまでもなく金属活字の明朝体をモデルとして作成されたものです。
学習用漢字字典に掲載されている教科書楷書体の「令」


 現在の日本では一般的な印刷物だけでなく、国語辞典や漢字辞典もほぼすべて明朝体で印刷されますから、「令」はもちろん下が《卩》の形で辞典に掲載されています。しかし小学校の漢字教育だけはちょっと事情がちがいます。というのは、小学校の教科書では明朝体が使われず、手書きで書く漢字の形にあわせて設計された「教科書楷書」という書体で印刷されているからです。


 だから小学校で使われる教科書や、あるいは小学生が使うように編集された学習用漢字字典では、「令」は右の図版のように、下が《マ》の形になっています。「令」は小学生4年生で学ぶ漢字で、同じく4年生の時に「冷」も学びますが、「冷」の右にある《令》も、もちろん下が《マ》の形になっています。でも、こうして「令」や「冷」を《マ》の形で学んだ子どもが中学校に入ると、今度は明朝体で印刷された教科書で下が《卩》になった「令」や「冷」と出会うということになります。日本の子どもたちが学ぶ漢字の形は、このように小学校と中学校で異なっているというのが現実なのです。


 これが、「令」の下が《卩》になったり《マ》になったりすることのタネ明かしです。


 だから「令」の下が《卩》であっても《マ》であっても、どちらも同じ漢字なのですが、それではいったいどちらが「正しい」のでしょうか?


中国や日本で過去に書かれた「令」の形一覧
 これを考えるために、実際に過去の中国や日本で過去に書かれた「令」の形を調べてみると、ご覧のように、どちらも同じくらいたくさん使われています。そして、これが肝腎なことですが、これらはすべて「令」という漢字で、すべて正しい漢字です。


 ここで結論をいいますと、2つの「令」の見かけ上のちがいは、単にデザインの差にすぎない、ということです。


 漢字の書き取りの試験で、「はねる・はねない」など筆画の微細な差異にこだわって採点する先生がおられ、世間でしばしば話題となりますね。その先生は手書き字形と印刷字形が別物だと云うことを理解しておらず、時には「辞書に印刷されているのが漢字の正しい形だ」などと、とんでもない指導をされているようです。


 それは現在の印刷物だけしか見ていない浅薄な見解であって、中国でも日本でも、昔からいままで、漢字の歴史を通じて、印刷される通りに漢字を書く、などということは一度もありませんでした。「辞書に印刷されているのが漢字の正しい形だ」と教える先生に対して、試みに、その先生はいつでも漢和辞典に載っている通りの形で漢字を書いていますか?とたずねてみればよろしい。明朝体の通りに漢字を書いている人など、世間には一人も居ないと思います。


 漢字の議論においては、手書きは手書き、印刷は印刷、まったくちがうそれぞれの状況において漢字が使われていることを、もっともっと認識する必要があります。そしてそのことは、「常用漢字表」につけられている「デザイン差」に関する記述を見れば一目瞭然なのですが、小中学校で国語の授業を担当される先生方のなかには、それをご覧になったことがないどころか、存在すら知らないという方もたくさんおられるようです。


 「常用漢字表」は、それを完全に掲載し、さらに便利に活用できるように工夫を凝らした書物がたくさん市販されていますし、また一般的な国語辞典や漢和辞典なら巻末の付録についています。最近では文化庁のホームページからダウンロードできるようにもなっています。


 デザイン差ということばをはじめて耳にする人もおられるかもしれませんので、ここに常用漢字表のデザイン差の規定を引用してみましょう。
「常用漢字表」(平成22年内閣告示第2号)にある (付)字体についての解説 には、次のように記されています。


 第2 明朝体活字と筆写の楷書との関係について
 常用漢字表では、個々の漢字の字体(文字の骨組み)を、明朝体活字のうちの一種を例に用いて示した。このことは、これによって筆写の楷書における書き方の習慣を改めようとするものではない。字体としては同じであっても、1,2に示すように明朝体の字形と筆写の楷書の形との間には、いろいろな点で違いがある。それらは、印刷上と手書き上のそれぞれの習慣の相違に基づく表現の差と見るべきものである。以下、分類してそれぞれの例を示す。

 そしてその2「筆写の楷書では、いろいろな書き方があるもの」で、印刷字体と手書き字体のデザイン差の具体例を示し、「令」についても「(6)その他」の部分に字例が挙げられています。


(1) 長短に関する例    雨 戸 無
(2) 方向に関する例    風 比 仰 糸 示ヘン 主 言 年
(3) つけるか、はなすかに関する例  又 文 月 条 保
(4) はらうか、とめるかに関する例  奥 公 角 骨
(5) はねるか、とめるかに関する例  切 改 酒 陸 穴 木 来 糸 牛 環
(6) その他 令 外 女

常用漢字表 字体についての解説に記載されている印刷字体と手書き字体のデザイン差の具体例


 つまり「令」の下がどちらであっても同じ漢字だ、とこの表ははっきり書いてありますので、これ以上の説明は必要ないと思います。


《参考リンク》


漢字ぺディアで「令」を調べよう


《著者紹介》


阿辻哲次先生
阿辻哲次(あつじ・てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長


1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。


●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
『角川新字源 改訂新版』の装丁



《記事写真・画像出典》


康煕字典の「令」   著者架蔵(清内府刊本影印本)
明朝体活字字形一覧  著者架蔵(文化庁国語課編)
教育漢字の「令」   光村教育図書 『漢字学習辞典』
さまざまな令     二玄社『大書源』
常用漢字デザイン差  常用漢字表

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