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あつじ所長の漢字漫談50 新元号「令和」を考える 第1回

2019.04.17

あつじ所長の漢字漫談50 新元号「令和」を考える 第1回

 【いよいよ新元号「令和」の時代が始まります!漢字文化研究所のあつじ所長が、4回にわたって「令和」について考えます。今回はその第1回「出典を『万葉集』とすること」です。】

 新しい年度がはじまるのは毎年4月1日と決まっていますが、今年(2019,平成31年)のその日はちょっと特別な日でした。というのは、天皇の皇位継承にともなって、5月1日から使用がはじまる新しい元号が発表される日で、新聞やテレビではかなり前から新元号の予測をしたり、考案者を推測したりするなど、いろいろにぎやかでした。

 そして当日、テレビは朝からどのチャンネルも元号報道一色で、祇園の漢字ミュージアムでも、1階のシアターで新元号発表のパブリック・ビューイングがおこなわれました。

 ふだんはそんなにたくさん人が入ることもないシアターですが、元号が発表される11時半が近づくと人で埋まり、皆さんスマホ片手に、菅官房長官の発表をいまかいまかと待っておられました。発表された新元号は、みなさまご存じのように「令和」でしたが、その出典が『万葉集』であると発表された時には、何人かの方から「ほぉ!万葉集か」という小さなどよめきも起こりました。

 新しい元号が実際に使われるのは5月1日からですが、「令和」という元号をめぐるさまざまな意見が新聞や雑誌、あるいはネット上に続々と載っています。それらの中には批判的なコメントやトンチンカンな議論もありましたが、大部分の意見は好意的であって、新元号は、まずはよいスタートを切ったようです。

 さて私が見たところでは、議論はおおむね以下の諸点に集約できると考えられます。

①「令和」の出典を『万葉集』とすることに問題はないか?
②「令和」をレイワと読むのは、漢音と呉音(ともに漢字の音読みの種別)を混用しているが、そのことに問題はないか?
③「令」という漢字は「命令・号令」という意味で使うのが一般的だが、元号にそのような「上から目線」で高圧的なイメージの文字を使うことに問題はないか?
④「令」という漢字は《𠆢》(やね・ひとやね)の下を《卩》と書く形と《マ》と書く形があるが、両者は同じ漢字かどうか。もし同じ漢字だとすれば、どちらが正しいのか?

 そこで今回は「令」をめぐる上の4点について考えてみようと思います。

①出典を『万葉集』とすること

「令和」の出典を『万葉集』とすることは、官房長官が元号発表の記者会見で、

出典は『万葉集』(巻五)梅花の歌三十二首の序文、「時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい)後の香を薫らす」から引用した

と語ったことによります。『万葉集』のこの文章は、新聞やネット上に出たたくさんの解説が説く通り、大宰府(いまの福岡県)で大宰帥(だざいのそち=大宰府長官)の地位にあった大伴旅人が天平2年(730)正月13日に大宰府で梅を愛でる宴を開き、その時に詠まれた32首の和歌をまとめた序文に見える表現です。

 この出典が話題となっているのは、これまでの元号がすべて中国の古典から採られたのに対し、今回の元号が日本の書物から採られたからで、発表直後の総理大臣談話でもそのことが強調され、その後も現今の国際情勢などに触れるなまぐさい議論などもふくめて、元号を和書から採ることについて多くの意見が出されました。

 しかしそれとは別に、「初春令月、気淑風和」の表現はたしかに『万葉集』にあるが、もともとは漢籍に見える文章をふまえているから、「令和」の出典は『万葉集』ではなく、やはり漢籍と考えるべきだという意見もあります。 もともと『万葉集』には、江戸時代中期の契沖(1640―1701)による『万葉代匠記』20巻というすぐれた著述があって、いまでも『万葉集』の研究ではこれから離れることができません。

 それでこの部分の『万葉代匠記』を見ると、そこに「于時、初春令月、気淑風和」とは、張衡「歸田賦」に「仲春令月、時和氣清」と云い、「蘭亭記」に「是日也、天朗氣清、恵風和暢」と云う、とあります(わかりやすいように原文に訓読を補いました)。

 契沖はこの部分について、張衡「歸田賦」と王羲之「蘭亭記」という文献を挙げています。張衡(ちょうこう、78―139)は後漢の文学者で、また天体や地震の観測機を作った科学者としても知られていますが、「歸田賦」(「歸」は「帰」の旧字体)は西暦138年に、張衡が政界から身を引き、故郷に戻って余生を送ろうとする心情を述べた「賦」(ながうた)で、その中に「仲春の令月、時は和し、氣は清し」という表現があります。

 もう一つの「蘭亭記」は、東晋の王羲之が353年に会稽(いまの浙江省紹興)にあった別荘「蘭亭」に名士や文人を集めて宴を催した時の詩集に附した序文で、その筆致は書聖王羲之の会心の作として、書道の面で古来最高の評価をあたえられてきました。その文章の一節に「是の日や天朗氣清、恵風和暢」という文章があります(ちなみにこれは日本海海戦での有名な電文「天気晴朗なれども波高し」の出典でもあります)。

 「歸田賦」は歴代の名文を集めた『文選』(もんぜん)巻15に入っており、「蘭亭記」は書道を学んだ者が必ず学んだ文章です。『文選』は日本でも知識人の必読文献でしたから、大宰府長官の地位にあった大伴旅人がその二つを知らないはずがありません。だから『万葉集』巻五にある「初春令月、気淑風和」には、この2つが出典として存在する、と契沖は考えたようです。

 さてそれでは、「令和」の出典は『万葉集』ではなく、張衡「歸田賦」と王羲之「蘭亭記」なのかといえば、問題はそれほど単純ではありません。というのは、「令和」の「和」が『万葉集』では「初春令月、気淑風和」と、初春(正月)の風の和らぎを詠っているのに対し、「歸田賦」では「仲春令月、時和氣清」と、仲春(2月)の情景ですし、「和」も時間の調和を意味していますから、両者は必ずしも同じ発想から生まれた表現ではありません。もう一つの「蘭亭記」の「恵風和暢」では、「和」が風の和らぎを詠っていますが、しかしこちらには「令」が出てきません。

 そう考えれば、「令和」の出典はやはり『万葉集』巻五とするのが妥当だろう、と私は思います。そしてむしろそのことよりも、これまでの元号が、たとえば明治が『易経』説卦伝の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」から、大正が『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」から、昭和が『尚書』堯典の「百姓昭明、協和萬邦」から、そして平成が『尚書』大禹謨(『史記』五帝本紀)の「地平天成」に由来するように、すべて天下国家の大事を論じる、威厳のある難解な漢籍に由来していたのに対し、今回の「令和」が、季節が冬から春に変わって感じる心情的な喜びを詠じた句に由来し、自然へのこまやかな観察に根ざす日本人の感性を表現するものであることが、従来にはなかった画期的な元号であると評価するべきでしょう。

次回は第2回「令和をレイワと読むことについて」です。お楽しみに!

《関連リンク》
漢字ペディアで「令」を調べよう
漢字ペディアで「和」を調べよう

《著者紹介》
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阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。
●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
 

《記事写真・画像出典》
・「令和」の額 漢字ミュージアム 著者撮影
・万葉代匠記 『万葉代匠記』国立国会図書館デジタルコレクション
・張衡「歸田賦」 著者架蔵『文選』宋胡刻本(藝文印書館影印本)

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