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あつじ所長の漢字漫談11 蟹になぜ《虫》があるのか

2017.10.11

あつじ所長の漢字漫談11 蟹になぜ《虫》があるのか

 数年前のこと、中学校で国語を担当しておられる先生から質問のお便りが届きました。内容は、「虹」「蛸」「蛤」はいずれもムシではないのに、なぜそれを表す漢字には虫ヘンがついているのか、というものでした。

 これについては、はじめにちょっとややこしい説明をしなければなりません。

 私たちが「むし」という意味で使っている「虫」はもともと「むし」ではなく、「まむし」というヘビの一種を表す漢字でした。「虫」は、今見ることができる最古の漢字である甲骨文字では頭の大きな蛇の形に書かれており、その意味の時は音読み「キ」であって、「チュウ」ではありません。



 一方「虫」とは別に、「蟲」という漢字があります。《木》が3つ集まった「森」は「たくさんの木があるところ」という意味ですから、そのデンでいけば「蟲」はマムシが三匹もいる、ということになるはずですが、しかしこの字は「たくさんのマムシ」ではなく、「いろんな種類の小動物」という意味に使われます。

 「虫」と「蟲」は、そのようにもともと別の漢字でした。そしてさらにややこしいことに《虫》が2つ左右に並んだ漢字もあって、中国最古の漢字字書『説文解字』によれば、本来はこれがバッタやトンボなど、私たちが普通に「むし」と呼んでいる生きものを表す漢字でした。



 つまり《虫》が一つ・二つ・三つある3種類の漢字があるわけで、『説文解字』では「虫」について、親指大の頭をもち、全長が三寸(約10センチ)の毒蛇を意味する漢字としています。ところが「虫」はそこから意味がひろがって、爬虫類を意味する要素として他の漢字に使われるようになりました。「蛇」や「蜥」「蜴」(どちらもトカゲ)、「蠍」(さそり)などヘビ系統の漢字に《虫》がついているのはそのためです。

 「虹」にも《虫》がついていますが、それは「虹」ももともとはヘビの仲間だったからです。甲骨文字の形を見ると、虹は頭が2つある龍が、山から山に向かって、大きくアーチのように身体を伸ばしている形に描かれています。古代の中国人は天空にかかった大きな虹を、大きな龍が両方の口で谷川から水を飲んでいる姿と考えました。甲骨文字の「虹」はそのイメージをかたどった象形文字で、後世の中国ではそれを《虫》と発音を表す《工》を組みあわせた「虹」という形声文字で表現した、というわけですね。



 「虫」がそのように蛇や爬虫類を意味する文字であったのに対して、前に図版を掲げた《虫》をふたつ並べた漢字(音読みはコン)が、一般的なムシを表す漢字でした。この漢字は単独では日本はもちろん、中国でも使われませんが、「蠶」(カイコ)や「蝨」(シラミ)、「蠢」(うごめく)などの漢字の構成要素になっており、そのことからこれがムシを意味する文字であったことが推測できます。

 そして《虫》を3つ集めた「蟲」ですが、これは日本でも中国でも、一般的に「虫」の旧字体と考えられてきました。しかし最初は一般的な昆虫よりももう少し広い意味を表していたようです。「蟲」について『説文解字』は、「足あるを蟲といい、足なきを豸という」と記しています。ちょっとわかりにくい文章ですが、いわんとすることは、コウロギやバッタのように足があるものが「蟲」で、「蚯蚓」(ミミズ)や「蛭」(ヒル)のように足のないものは「蟲」ではなく、「豸」というグループだと『説文解字』は述べているわけです。

 以上はあくまでも『説文解字』における分類ですが、しかし漢字は必ずしも作られたときの意味でずっと使われ続けるわけではありません。その後実際には《虫》2つの字はほとんど使われなくなり、そして「蟲」も早くから「虫」の旧字体と考えられていました。

 つまり「虫」は、マムシなどの爬虫類という意味で使われる以外に、「蟲」の省略形としても非常に早い時代から使われたというわけです。だから漢和辞典の「虫」部には、「蝮」(まむし)や「蠍」(サソリ)など爬虫類を表す漢字のほかに、昆虫である「蚊」や「蟬」、「蝶」、「蟻」、「蠅」などが入っています。

 そしてさらにこの《虫》がついている漢字は、爬虫類と昆虫だけに限定されず、なんと「蝙蝠」や「蝟」(ハリネズミ)にも使われていますし、「蛸」(タコ)や「蛤」(ハマグリ)、「蜆」(シジミ)、「蝦」(エビ)、「蝌」(おたまじゃくし)などの水生動物にも使われています。つまり《虫》は小動物全体にわたって広く使われたと考えられます。

 高校生のとき、現代国語の教科書に「蟹行文字」ということばが出てきました。横方向に書き進めるアルファベットなどを意味する表現で、もちろんカニが横に歩くことに由来するいい方ですが、この文章を音読するよう指名されたわが級友は、「蟹行」を「カニコウ」と読んで先生の失笑を買いました。「蟹」を「カニ」と読むのは訓読みで、「蟹行」は音読みで「カイコウ」と読むのが正しいのですが、しかし現実には「蟹鍋」でも「蟹工船」でも「上海蟹」でもすべて訓読みが使われていますから、わが友がそれを訓読みで読んだのも無理はありませんね。なお「蟹」に《虫》がついている理由については、ここであらためて書く必要はないでしょう。


《参考リンク》
漢字ペディアで「虫(蟲)」を調べよう
漢字ペディアで「虹」を調べよう
漢字ペディアで「蟹」を調べよう
漢字ペディアで、部首が「虫(むし・むしへん)」の漢字を調べよう

《著者紹介》
atsuji_muse.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像
阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。

《記事写真・画像》
・記事上部 上海蟹写真:著者撮影。撮影のあと暴れ食い。
・記事内
 虫の甲骨の図 『甲骨文字典』北京工芸美術出版社、2010年
 虫二つの字 『康煕字典』光緒11年同文書局刊本
 虹の絵と甲骨文字 『漢字演変五百例』北京語言大学出版社、1992年

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