なぜ「海」の中に「毎」があるのか【下】|やっぱり漢字が好き27
著者:戸内俊介(日本大学文理学部教授)
もう「海」の季節とは言えないが、みたび「海」の話題である。前号のコラム「なぜ『海』の中に『毎』があるのか【中】」では、形声文字でありながらも、現在の日本漢字音や中国中古音(隋唐時代の漢字音の体系)で形声文字と声符の字音が異なる例として「毎」と「海」を取り上げた。そして中国の上古時代(周代〜漢代)の漢字音では、「毎」も「海」も共に*m-に類する音節頭子音(声母)を持っており、互いに発音が近かったため、「海」が「毎」の声符となっていることを紹介した。
さて前号では、中国の中古音で「毎」は両唇鼻声母m-を持ち、「海」は軟口蓋摩擦音x-を持つと述べた。実は上古中国の出土文献、具体的には中国戦国時代の南方の大国楚の竹簡(これを「楚簡」と呼ぶ)にも、同様にm-を声母とする文字とx-を声母とする文字の接触が見られる。それは、中古音で子音m-ではじまる「聞」(呉音:モン、漢音:ブン)が、x-ではじまる「昏」や「」(呉音:コン、漢音:コン)の文字で表記される現象である。
『老子』と呼ばれる古代中国の思想書がある。書名くらいは聞いたことがあるという方も多いであろう。また日本酒の「上善如水(上善水の如し)」は『老子』の一節から名前をとったものである。
楚簡には『老子』と同じ内容を持つ一群の竹簡が見つかっている。図1はその一部であるが、3文字目に「昏」が見られる。これを現行本の(つまり、現在まで書籍として伝わっている)『老子』は「聞」の文字で表記する。
図1 郭店楚簡『老子』「上士昏(聞)道」〔優れた人物が道について訊ねる〕
さらに中国最古の字書である後漢の『説文解字』でも、「聞」の古文(戦国時代の秦以外の東方地域の文字)として図2の丸で示した文字が挙げられている。この文字を楷書として書けば「」で、「昏」が声符である。
図2『説文解字』「聞」
楚簡や『説文解字』における、「聞」(呉音:モン、漢音:ブン)と「昏」(呉音:コン、漢音:コン)の接触から、「毎」と「海」と同様に、「聞」の声母は*m-、「昏」の声母は*m̥-と復元されるのである。そして「昏」は「海」と同じく、上古から中古にかけて一部の地域で、*m̥-からx-に変化したと推定される。
再び話を「海」に戻そう。手元にあった白川静『字通』を紐解いてみたところ、「海」の字源を次のように説いていた。
海・晦・悔は同声。声符の毎は、祭祀に従う婦人が、多く髪飾りを加える形で、上を覆う、暗い意がある。晦冥のところを海といい、それを恐れる心情を悔いるという。
白川氏の言うところの「暗い意」を推し量ると、光量が少ないことによる「暗い」またはその色が「黒っぽく見える」といったところであろうか。白川氏は「毎」にそういった「暗い」というイメージがあることを認めつつ、「海、晦、悔」が「毎」を声符とする理由を、そのイメージによって説明しているのである。「晦」には「暗い」という意味があり、「海」は暗く黒いものであり、その暗さを恐れる心情が「悔」である、といった具合である。
しかし、中国の古典の中で「毎」を「光量が少なくて暗い、黒っぽく見える」という意味で用いるものはない。そのうえ楚簡では、「毎」ではなく「母」を声符とする「」字で「海」を表す例がしばしば見られる(図3)。
図3上博楚簡『呉命』5号簡
従って「毎」に「暗い、黒っぽい」というイメージを想定するのはもとより、「海」は「暗い、黒っぽい」から「毎」を声符とするのだという解釈も、それを積極的に支持しうるだけの根拠に乏しい。そもそも声符に意味を求める字源解釈は憶測によるものであることも少なくない。声符はやはり字音を示すことこそが基本的な機能である。
なお「晦」にのみ「海」と語源上の関係があると指摘する研究者もいる。並行する例として、「暗い」を意味する「冥」と、「海」を表す「溟」の関係が挙げられる。ただしこれらは語源上の関係を言うものであって、字源の話ではない。字源と語源は分けて考えるべきである。
楚簡では「母」を声符とする「」で「海」を表記すると上で述べた。「母」は上古音では*məʔと復元されるが、これは「毎」と同様、単に「海」*m̥ˤəʔの発音を示す声符に過ぎない。もし、「」が「海」を表しているという楚簡上の用字現象から、「母なる海だから、(海)に母という字が用いられている云々」などと字面のみからその由来を憶測するような字源解釈を展開する人がいたら、それは要注意である。
次回「やっぱり漢字が好き28」は9月20日(金)公開予定です。
≪参考資料≫
白川静『字通』、平凡社、1996年
許慎『説文解字』(一篆一行本影印)、中華書局、1963年
荊門市博物館『郭店楚墓竹簡』、文物出版社、1998年
馬承源主編『上海博物館蔵戦国楚竹書』(1)-(9)、上海古籍出版社、2001-2012年
李方桂『上古音研究』、商務印書館、1982年
Sagart, Laurent & Baxter, William H. Reconstructing the *s- prefix in Old Chinese. Language and Linguistics 13. 2012
Schuessler, Axel. ABC Etymological Dictionary of Old Chinese. University of Hawai’i press. 2006
≪参考リンク≫
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≪著者紹介≫
戸内俊介(とのうち・しゅんすけ)
日本大学文理学部教授。1980年北海道函館市生まれ。東京大学大学院博士課程修了、博士(文学)。専門は古代中国の文字と言語。著書に『先秦の機能後の史的発展』(単著、研文出版、2018年、第47回金田一京助博士記念賞受賞)、『入門 中国学の方法』(共著、勉誠出版、2022年、「文字学 街角の漢字の源流を辿って―「風月堂」の「風」はなぜ「凮」か―」を担当)、論文に「殷代漢語の時間介詞“于”の文法化プロセスに関する一考察」(『中国語学』254号、2007年、第9回日本中国語学会奨励賞受賞)、「「不」はなぜ「弗」と発音されるのか―上中古中国語の否定詞「不」「弗」の変遷―」(『漢字文化研究』第11号、2021年、第15回漢検漢字文化研究奨励賞佳作受賞)などがある。