逆さまの漢字と「逆」字の由来【下】|やっぱり漢字が好き46

著者:戸内俊介(日本大学文理学部教授)
前号では「い」と書いて「やすい」と読ませる看板を足掛かりに、上下転倒によって成立した漢字の一例として「屰」「逆」を取り上げた。今号では、これらの文字がどのような意図で成立したのかについて見ていきたい。
前号では「屰」は「逆」の初文(原始的な字体)で、人を正面から見た形を象った「大」や「天」を上下転倒させて成り立った文字であることを紹介したが、甲骨文にはこのほか、関連するものとして図6、図7のような文字も見られる。
図6(『甲骨文合集』32036) 図7(『甲骨文合集』6201)
図6は人をひっくり返した「屰」の左に「彳」、下に足の象形である「止」の偏旁を加えた文字であるが、「彳」と「止」は併せると「」となり、これは現在の「辶」に当たる。つまり図6はまさに「逆」字なのである。図7は、図6の「屰」の左にあった「彳」と「止」が右側に配置されている。これもまた「逆」字である。甲骨文では文字の左右が反転するケースがしばしば見られる。
「逆」は甲骨文では「逆(むか)える」という意味の動詞として用いられた。例えば、図7の「逆」字は次の文の中で用いられたものである。
(2) 王于南門逆羌。(『甲骨文合集』6201)
〔王は南門で羌を待ち受ける〕
それでは「屰」や「逆」といった文字はどのような意図で作られたのであろうか。
「屰」は人を上下「逆さ」にした様を象った象形文字で、「逆さ」(反対方向になっている様子)や「逆らう」(反対方向になる動き)という基本義を表す。さらに、「迎える人」と「迎えられる人」は互いに反対の方向を向いていることから、「逆(むか)える」という意味にも派生した。この意味は移動と関わることから、「彳」と「止」を加え「逆」という字体が生じた。のち「屰」の字体は廃れ、「逆」が普及した。
なお「逆」字の甲骨文から小篆までの字形・字体の変遷は概ね以下のとおりである。
最後に冒頭の「でんきの (やす)い店」に戻るが、インターネットでこの店名を検索すると「でんきの高い店」という表記しか出てこない。無論これは、「
」という漢字がコード化されていないこと、さらに看板にルビがついておらず、読み方を受け取り手の想像力にゆだねていること(つまり「やすい」と読むものかどうかは未確定であること)が要因であるが、「でんきの高い店」という名称ではこの店名の考案者の意図とまさに「逆」になってしまう。
次回「やっぱり漢字が好き47」は6月23日(月)公開予定です。
≪参考資料≫
季旭昇『説文新證』、芸文印書館、2014年
裘錫圭『文字学概要』、商務印書館、1988年(稲畑耕一郎・崎川隆・荻野友範訳『中国漢字学講義』、東方書店、2022年)
裘錫圭「甲骨卜辞中所見的逆祀」、『裘錫圭学術文集1 甲骨文巻』、2012年
高佑仁「『屰』字構形演変研究」、『中正漢学研究』2013年第2期
≪参考リンク≫
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≪著者紹介≫
戸内俊介(とのうち・しゅんすけ)
日本大学文理学部教授。1980年北海道函館市生まれ。東京大学大学院博士課程修了、博士(文学)。専門は古代中国の文字と言語。著書に『先秦の機能語の史的発展』(単著、研文出版、2018年、第47回金田一京助博士記念賞受賞)、『入門 中国学の方法』(共著、勉誠出版、2022年、「文字学 街角の漢字の源流を辿って―「風月堂」の「風」はなぜ「凮」か―」を担当)、論文に「殷代漢語の時間介詞“于”の文法化プロセスに関する一考察」(『中国語学』254号、2007年、第9回日本中国語学会奨励賞受賞)、「「不」はなぜ「弗」と発音されるのか―上中古中国語の否定詞「不」「弗」の変遷―」(『漢字文化研究』第11号、2021年、第15回漢検漢字文化研究奨励賞佳作受賞)などがある。