逆さまの漢字と「逆」字の由来【上】|やっぱり漢字が好き45

著者:戸内俊介(日本大学文理学部教授)
次の写真の看板は、散歩中に見かけたものである。みなさん、読めますか?
図1(筆者撮影)
これは「高」の上下を転倒させて、「(値段が)高い」の反対の意味、すなわち「(値段が)安い」と読ませるものであろう。今号と次号では、上下を転倒させた漢字を主題とし、筆を執りたい。
このひっくり返った「」という字は臨時的なもので、一般に使われるものではないし、無論、規範化されたものでもない。「
い(やすい)」という訓読みは我々の知識と想像力によって補ったものである。そうである以上、正解は必ずしも「やすい」ではないかもしれない。「でんき」に関わる単位である、ボルトやアンペア、ワットの値が「低い」と解釈する余地もある。
上で紹介した「い」=「安い」は漢字の上下をひっくり返して、異なる語(意味)を表そうとするものだが、実のところ我々の身近にある漢字の中にも、ある既成の字をひっくり返して成立した字がある。冒頭の「高」を例にとって説明すると、「高」を転倒させた「
」が「やすい」を意味する文字として用いられ、それがさらに定着し規範化したようなケースがあるということである。
それは「屰」字である。現在ではしんにょうを加えて「逆」と書くのが一般的であるが、もともとはしんにょうを加えない形で書かれていた。殷代の青銅器銘文、すなわち殷金文では図2のように書かれ、殷代の甲骨文では図3のように書かれる。
図2(屰爵:『殷周金文集成』7338)
図3(『甲骨文合集』2960正)
図2は「天」を上下転倒した文字で、図3は「大」を上下転倒した文字である。「天」にせよ「大」にせよ、いずれも人を正面から見た形を象った象形文字である。次の図4が殷金文の「天」、図5が甲骨文の「大」であるが、これらの上下を転倒させると、図2、図3の文字と合致する。つまり、図2、図3の「屰」は正に人が「逆さ」になった形なのである。
図4(天簋:『殷周金文集成』2914)
図5(『甲骨文合集』13513反)
次の例(1)は「屰」の用例である。裘錫圭氏は「屰」を「逆」の意味に解釈したうえで、甲骨文の祖先祭祀は一般的に古い時代の殷王から即位順に祭祀を行うが、この「屰(逆)」は近い時代の殷王から古い時代の殷王へ遡る形で祭祀を行うことを表していると見なす。
(1) 庚寅卜:“屰(逆)自毓(後)禱年,王……”(『小屯南地甲骨』36)
〔庚寅の日に占った、「後の時代の先王から反対方向に遡る形で祭祀を行い、作物の豊作を祈願すると、王は……」と〕
したがって「屰」は「逆」の初文(すなわち、より原始的な字体)であると考えてよい。
今号はここまでとする。次号では、「屰」字や「逆」字がどのような意図で作られたのかについて見ていきたい。
次回「やっぱり漢字が好き46」は6月9日(月)公開予定です。
≪参考資料≫
季旭昇『説文新證』、芸文印書館、2014年
裘錫圭『文字学概要』、商務印書館、1988年(稲畑耕一郎・崎川隆・荻野友範訳『中国漢字学講義』、東方書店、2022年)
裘錫圭「甲骨卜辞中所見的逆祀」、『裘錫圭学術文集1 甲骨文巻』、2012年
高佑仁「『屰』字構形演変研究」、『中正漢学研究』2013年第2期
中国社会科学院考古研究所『小屯南地甲骨』、中華書局、1980年-1983年
≪参考リンク≫
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≪著者紹介≫
戸内俊介(とのうち・しゅんすけ)
日本大学文理学部教授。1980年北海道函館市生まれ。東京大学大学院博士課程修了、博士(文学)。専門は古代中国の文字と言語。著書に『先秦の機能語の史的発展』(単著、研文出版、2018年、第47回金田一京助博士記念賞受賞)、『入門 中国学の方法』(共著、勉誠出版、2022年、「文字学 街角の漢字の源流を辿って―「風月堂」の「風」はなぜ「凮」か―」を担当)、論文に「殷代漢語の時間介詞“于”の文法化プロセスに関する一考察」(『中国語学』254号、2007年、第9回日本中国語学会奨励賞受賞)、「「不」はなぜ「弗」と発音されるのか―上中古中国語の否定詞「不」「弗」の変遷―」(『漢字文化研究』第11号、2021年、第15回漢検漢字文化研究奨励賞佳作受賞)などがある。