漢字コラム13「戦」地をはらって平らかにする
著者:前田安正(朝日新聞メディアプロダクション校閲事業部長)
「戦ぐ」。これをなんと読むかわかりますか?中唐の詩人白居易は「西湖より晩に帰り孤山寺を回望して諸客に贈る」という詩の中に「櫚葉戦水風涼」と詠んでいます。
後ろの部分は「水と風が涼しい」っていう意味なのかな。初めのところはさっぱりだ。
栟櫚(ヘイロ)は、棕櫚(シュロ)の別名です。最後の「水風涼」の「水風」はこの場合、水と風というより水を渡る風という感じ、つまり「水を渡ってくる風は涼しい」ということになるでしょうか。問題は残りの「葉戦」ですね。ここで詠っている情景は、だいたいつかめたのではないでしょうか。
えっと、棕櫚の葉がなんとかして、水を渡る風は涼しい、か。葉、葉、葉…。あ、「葉がそよぐ」かな。
正解です。「戦ぐ」は「そよぐ」と読みます。つまり「 櫚葉戦水風涼」は「棕櫚の葉はそよぎ、水を渡ってくる風は涼しい」といったような情景を詠ったものです。
「戦」は、もともと「戰」と書いていました。「戰」の「戈」の部分は「ほこ」という武器を表しています。「單(単)」は「ほこりをはらう道具」「ハエたたき」「扇子のようなもの」などと言われています。ここに共通するのは「平らか」「薄くて平たい」というイメージです。このイメージから「戦う」というのは、武器を使って「地をはらって平らかにする」「凹凸のあるものをなで切りにして平らげる」ことだという説があります。「平定する」という言葉に近いかもしれません。「單(単)」には「獣を追う道具」だという解釈もあります。「獣」の旧字体「獸」にも似たような部分があるからだ、というのがその理由です。しかし、これに疑問を呈する向きもあるようです。
「薄くて平たい」扇子はパタパタ仰ぐ動作を伴うので、「振動する」というイメージが加わります。「蟬」に「單」が含まれているのも、腹の部分を振るわせて鳴くように見えたからです。そもそも戦は、敵を恐れさせ、おののかせるものです。「戦慄」「戦々兢々」の「戦」には「ふるえる」という意味があるのです。「おののく」も「戦く」と書きます。
さらに「薄くて平らなものが震え動く」のは、戦闘場面で敵と武器を交えて、刃と刃がふれあってぱたぱたと震え動く様子をとらえたもので、この状況を形にしたものが「戦」という字だという解釈も生まれています。
「そよぐ」という意味に「戦」という字を当てたのも、「震動させる」「振るわせる」というところから派生したものかもしれません。「草木がそよそよゆれる」という「いくさ」とはかけ離れた感覚を「戦」で表現したところに、人間の不思議な感性の揺らぎを感じます。
≪参考資料≫
「漢字の起原」(角川書店 加藤常賢著)
「漢字語源辞典」(學燈社 藤堂明保著)
「漢字語源語義辞典」(東京堂出版 加納喜光)
「学研 新漢和大字典」(学習研究社 普及版)
「全訳 漢辞海」(三省堂 第三版)
「日本国語大辞典」(小学館)、「字通」(平凡社 白川静著)は、ジャパンナレッジ(インターネット辞書・事典検索サイト)を通して参照
≪参考リンク≫
≪著者紹介≫
前田安正(まえだ・やすまさ)
朝日新聞メディアプロダクション校閲事業部長
1955年福岡県生まれ。早稲田大学卒業。1982年朝日新聞社入社。名古屋編集センター長補佐、大阪校閲センター長、用語幹事、東京本社校閲センター長などを経て、現職。
朝日カルチャーセンター立川教室で文章講座「声に出して書くエッセイ」、企業の広報研修などに出講。
主な著書に『漢字んな話』『漢字んな話2』(以上、三省堂)、『きっちり!恥ずかしくない!文章が書ける』『「なぜ」と「どうして」を押さえて しっかり!まとまった!文章を書く』『間違えやすい日本語』(以上、すばる舎)など。