歴史・文化

あつじ所長の漢字漫談1「重箱読み」と「湯桶読み」

あつじ所長の漢字漫談1「重箱読み」と「湯桶読み」

 2017年6月、(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長に阿辻哲次京都大学名誉教授が就任しました。そこで、「あつじ所長の漢字漫談」と題して、身近な漢字や言葉についてのコラムを連載していきます。それでは、記念すべき第1回のコラムをお楽しみください。




著者:阿辻哲次(京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長)

 よく知られているように、漢字の熟語の読み方に、「重箱読み」と「湯桶(ゆとう)読み」 があります。「台所」とか「番組」のように、最初の漢字を音読みで、次を訓読みで読むのが「重箱読み」で、逆に「株券」とか「夕刊」のように訓読み音読み の順に読む読み方を「湯桶読み」といいますね。

 「重箱」とはおせち料理が入っているおなじみの道具ですが、ここに出てくる「湯桶」を、私はずっと入浴に使う風呂桶だと思っていました。でもそれはまちがいで、「湯桶」とは湯や酒を入れる漆塗り容器のこと、よく知られているものではそば屋さんで「そば湯」を入れて出てくるあの木製容器が「湯桶」です。重箱と湯桶は、どちらも食卓で使われる漆塗りの道具に由来する名称だったのです。

 さて、もともと漢字熟語は音読みで読むのが正しいあり方でした。だからほとんどの学術用語は、「技術」「機械」「数学」「文法」というように、音読みで読まれます。しかし音読みは耳で聞いただけではわからない、という特徴があります。たとえば「海」を「カイ」と、「紙」を「シ」と音読みで読まれても、耳で聞いただけではなんのことかわかりませんでしょう?

 漢字は訓読みにしてはじめて意味がわかるので、重箱読みと湯桶読みは、漢字の熟語を耳で聞いたときに少しでもわかりやすくするための変則的な読み方として発生したものでした。

 たとえば、事故や災害などで交通網が混乱した時に走る「代替バス」は、音読みでは「だいたいバス」であるはずですが、現実には重箱読みで「だいがえばす」と発音されます。また「化学」を「ばけがく」と、「甘食」を「あましょく」と 湯桶読みするのも、「科学」と「化学」、「甘食」と「間食」の同音異義語を読み方によって区別するための工夫でした。

 しかし中にはよくわからない読み方もあり、私は特に「車幅」を重箱読みで「しゃはば」と読むことに強く違和感を感じます。

 「幅」の音読みはフクですから、音読みで「シャフク」が正しいと思うのです が、自動車教習所の教科書でも、自動車メーカーのCMでも、そして交通関係の警察でも、これはどうやら「しゃはば」と読むことに統一されているようです。わが愛用のパソコンに搭載されている日本語変換辞書でも「しゃふく」では「車幅」に変換されず、「しゃはば」と入力しなければ漢字になりません。

 しかし同じ漢字を使う「幅員」は、音読みで「フクイン」と読まれます。

 「広さ」という意味で使われる「幅員」は、実は中国最古の詩集である『詩経』 の商頌・長発という詩(成立はだいたい紀元前1000年前後)に見える、非常に古いことばで、原文には「幅隕」とあるのが、やがて「幅員」と書かれるようになりました。

 その『詩経』に加えられた注釈によれば、「幅」は左右の長さ、「員」は周囲の長さのこととされますが、やがて日本語ではもっぱら道路や橋などの「はば」 の意味に使われるようになりました。

 そこまではなんの問題もないのですが、さて、わが家の近所の国道で工事がおこなわれていて、そこに「巾員狭少につきご注意ください」という看板が出ていました(写真参照)。


「巾員狭少につきご注意ください」という看板

 「幅員」はだれでも「フクイン」と読みますが、しかし「車幅」は「幅」を 「はば」と読むものですから、同じく「はば」と読む「巾」と「幅」のちがいがわからなくなった人がいたようですね。この看板はおそらく「幅員狭小」と書くつもりだったのを書きまちがったものにちがいありません。しかし「巾」の音読みは、布巾・雑巾というように「キン」ですから、この看板は「キンインキョウショウ」と読まねばならないことになります。

 「車幅」が重箱読みで「しゃはば」と読まれるようになったのがいつからなのかはわかりませんが、その慣用的な読みが社会に定着した結果、「巾員」という珍妙な表記が生まれました。

 こうして日本語は乱れていくのです。

≪参考リンク≫

漢字ペディアで「幅」を調べてみよう。
漢字ペディアで「巾」を調べてみよう。

≪著者紹介≫

阿辻哲次先生
阿辻哲次(あつじ・てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。

≪記事画像≫

Mary & Wool / PIXTA(ピクスタ)
harako / PIXTA(ピクスタ)

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