歴史・文化

あつじ所長の漢字漫談4 馬や虎に「ケモノヘン」がつかない理由

あつじ所長の漢字漫談4 馬や虎に「ケモノヘン」がつかない理由

著者:阿辻哲次(京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長)

 数年前のこと、ある大学に附属する小学校で校長をしている友人からメールが届きました。以前にいっしょに仕事をしていた仲間で、飲み食いが大好きな人ですから、久しぶりに飲み会の案内かと思ったら、残念ながら(?)漢字に関する質問でした。

 彼が勤務する小学校は非常にさばけていて、休み時間などに生徒が自由に校長室に遊びに来て、いろいろ話をすることが奨励されていて、大多数のこどもは、好奇心のおもむくまま校長室にやってきてはいろんな話をするそうです。私が小学生のころは、校長先生など雲の上の存在でしたから、気軽に口をきくことなどなく、ましてや校長室へ遊びに行くなど絶対に考えられませんでした。時代も変わったものだ、とつくづく思います。

 もちろん校長先生が子供たちと気さくに話し、日常の場で教育的なコミュニケーションをはかるのはとてもいいことです。しかし時には思いもかけない質問に出くわして、校長も立ち往生させられることがあるのだそうです。

 さてメールによれば、われらが校長先生はある子どもから、「馬や虎や鹿にはどうしてケモノヘンがつかないの?」とたずねられたというのです。つまり「猫」や「猿」「狸」には《犭》(ケモノヘン)がついているのに、「馬」や「虎」にそれがないのはなぜか、と質問されたというのです。

 これは大学で中国語学を専門に研究している大学院生でもそう簡単には思いつかない、非常に質の高い問題です。もともと大学時代は心理学を専攻していた校長先生にはとても答えられないでしょうし、正直言えば私もこれまで考えたことがありませんでした。

 でも少し考えてみると、答えは意外に簡単でした。

 「馬」や「虎」「牛」という漢字は、ウマ・トラ・ウシという動物の姿全体(あるいはその一部)をかたどった象形文字であるのに対して、「猫」や「猿」「狸」などは動物を表す《犭》と、発音を表す部分(「猫」なら《苗》、「猿」なら《袁》、「狸」なら《里》)でできています。はい、以前にとりあげた「形声文字」ですね。


 さてこれらの漢字でヘンとなっている《犭》は、「犬」がヘンになった時の形です。これを部首とする漢字は、伝統的な漢和辞典では4画の《犬》部に収められ、「犬」はイヌの姿をかたどった象形文字で、イヌという意味を表しますが、他の文字に対して意味を示す時には、イヌ以外の動物一般を意味することがよくあります。


甲骨文字の「犬」

 「猪」や「狼」、「猊」(唐獅子)などは形がまだしもイヌに似ていますが、「猿」や「狸」あるいは「狐」はイヌとはかなり形がちがいますし、「獺」(カワウソ)となると、イヌとは似ても似つかない形ですが、それでもこれをヘンとしています。《犭》が「イヌヘン」ではなく「ケモノヘン」と呼ばれるのは、実はそのためなのです。

 ところで漢字は数万字あるといわれますが、最初からそんなにたくさんの漢字が一度に作られたわけではありません。たとえば「松」とか「桐」という漢字を考えてみるとわかりますが、最初から「松」や「桐」が作られるわけはなく、「松」や「桐」が作られる前にはかならず《木》と《公》、そして《同》という漢字が単独で存在したはずです。

 つまり漢字には、第一段階で作られた基礎的な漢字群と、第二段階としてそれらを組みあわせた漢字群という二重の構造があるのです。

 この第一段階で作られた漢字は、それ以上分解できない構造をもっていて、そのうち動物を表す「馬」や「犬」、「鹿」などは、おそらく古代中国人の日常生活とかなり密接にかかわりをもっていた動物であり、それでこれらの動物の姿をそのまま描いた象形文字が作られました。しかしすべての動物をそのまま象形文字にできるわけがありません。それで動物一般を表すケモノヘンと、動物の名を呼ぶ音を組みあわせて、「猿」や「狸」などの形声文字が作られたというわけです。


信楽焼の狸

 ということをメールで簡単に(素人にもわかるように)伝えると、校長から感激の礼状が届き、さらに「こんどビールでもおごるよ」と喜ばしいメッセージが添えられていました。

 漢字の研究とは、このように非常に役に立つものなのです。

≪参考リンク≫

漢字ペディアで「けものへん」の漢字を調べよう

≪著者紹介≫

阿辻哲次先生
阿辻哲次(あつじ・てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。

≪掲載資料出典≫

『甲骨文字典』 王本興編著 北京工芸美術出版社 2010年

≪記事写真≫

著者撮影。上部写真は、著者が昔飼っていたポチ。

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