まぎらわしい漢字歴史・文化

猗窩座の「猗」は何を意味するのか ~「猗」の字音と字義〜 |やっぱり漢字が好き50

猗窩座の「猗」は何を意味するのか ~「猗」の字音と字義〜 |やっぱり漢字が好き50

著者:戸内俊介(日本大学文理学部教授)
 

 

 『鬼滅の刃』の勢いが止まらない。『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』は8月25日現在で興行収入280億円を超え、300億円に迫る勢いである。映画公開に合わせて、日本漢字能力検定協会も『鬼滅の刃』とコラボし、「あなたが選ぶ『鬼滅の刃』を表す漢字一字は?」という企画を展開している。

 今回の劇場版は主人公竈門炭治郎と対峙する鬼、猗窩座あかざが、いわば「影の主役」とも言える存在感を放っている。今号では、その猗窩座という名に用いられた漢字に注目し、その背後に込められた意味について考察してみたい。

 猗窩座の「猗」という字についてインターネット上で次のような解釈をしばしば目にすることがある。

 猗窩座は人間だったころ、「狛治」という名で生きていた。この名前は、邪気を祓い人々を守る「狛犬」に由来する。だがその名とは裏腹に、狛治は大切な家族を守れず、無力感の果てに鬼となり、「猗窩座」と名乗るに至った。「猗」には「去勢された犬」という意味があり、これは人間だった頃の狛治が家族すら守れない「役立たずの狛犬」であったという比喩が込められている。


 しかし「猗」という字が「去勢された犬」を意味するという説明は、厳密には正確ではない。

 漢字には複数の音読みを持つものが存在する。ただしこれは、「漢字には訓読みと音読みがある」といった日本における読み分けや、「音読みには漢音・呉音・唐音の三種がある」といった漢字音の時代層とは異なる問題である。ここで真に関与的なのは、一つの漢字が複数の漢音を持ち、それぞれが異なる意味を担っているという現象である。

 たとえば日本漢字音において、「悪」は「アク」と「オ」の2種の漢音を持ち、「アク」は「わるい」を意味し、「オ」は「にくむ、はじる」を意味する。「率」という字も漢音で「リツ」と読めば、「標準」や「割合」の意味に対応し、呉音で「ソツ」、漢音で「シュツ」と読めば「ひきいる」の意味に対応する。

 このように、一字に複数の字音が対応し、それぞれが異なる意味をもって用いられることが、「猗」の意味をめぐる解釈においても重要となる。

 「猗」も2種類の字⾳を持つ漢字である。1つは漢⾳・呉⾳で「イ」と発⾳し、もう1つは漢⾳・呉⾳で「ア」と発⾳する。遡れば「猗」は古代中国において複数の字⾳を持っており、日本の漢音・呉音に2種類あるのはその反映である。

 このうち「去勢された犬」という意味を持つのは、「イ」と読む場合である。「ア」という字音にこの意味が対応することはない。古くは中国後漢時代の西暦100年に編纂された字書『説文解字』に「猗,犬也」〔猗は去勢された犬である〕とある。その反切(ある漢字の発音を、異なる漢字2字を組み合わせて示す方法)は「於离の切」と記されており、ここから導かれる漢音は「イ」に該当する。

 では「ア」と発音される「猗」はどのような意味を担っているのであろうか。この「猗」はしばしば「儺」(呉音:ナ、漢音:ダ)や「那」(呉音:ナ、漢音:ダ)、「」(呉音:ニ、漢音:ジ)と組み合わされて、「猗儺アダ」、「猗那アダ」、「アジ」といった語を形成する。これらの語はいずれも「しなやかで美しい様」を意味するが、時代や文献によっては「阿那アダ」や「婀娜アダ」とも表記されることもある(馬麗娜2019)。このうち「猗」「阿」「婀」は互いに字音が同じか近いことによる置き換えで、いずれも「しなやか、美しい」という意味を持つ。中国北宋時代の1039年に編纂された辞書『集韻』には、「猗,柔皃,或作阿」〔猗はしなやかな様である。「阿」と書くこともある〕と記されている。つまり「しなやか、美しい」という意味の「猗」は「阿」(ア)に相当するということである。

 したがって、厳密に「去勢された犬」という比喩を表そうとするならば、「猗窩座」を「いかざ」と読まなければならない。一方、「あかざ」と読むと、そこには「しなやか、美しい」という別の意味が込められてしまう。




 次回「やっぱり漢字が好き51」は9月22日(月)公開予定です。

≪参考資料≫

馬麗娜「“婀娜”考辨」、『漢字漢語研究』2019年第2期



≪参考リンク≫

漢字ペディアで「猗」を調べよう

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≪著者紹介≫

戸内俊介(とのうち・しゅんすけ)
日本大学文理学部教授。1980年北海道函館市生まれ。東京大学大学院博士課程修了、博士(文学)。専門は古代中国の文字と言語。著書に『先秦の機能語の史的発展』(単著、研文出版、2018年、第47回金田一京助博士記念賞受賞)、『入門 中国学の方法』(共著、勉誠出版、2022年、「文字学 街角の漢字の源流を辿って―「風月堂」の「風」はなぜ「凮」か―」を担当)、論文に「殷代漢語の時間介詞“于”の文法化プロセスに関する一考察」(『中国語学』254号、2007年、第9回日本中国語学会奨励賞受賞)、「「不」はなぜ「弗」と発音されるのか―上中古中国語の否定詞「不」「弗」の変遷―」(『漢字文化研究』第11号、2021年、第15回漢検漢字文化研究奨励賞佳作受賞)などがある。

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