あつじ所長の漢字漫談7 皆既日食と即席ラーメン
著者:阿辻哲次(京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長)
8月17日にアメリカで皆既日食が見られたというニュースがありました。日食が西のオレゴン州から東に移動してゆくにつれて、全米各地で日食を見る人々の姿がニュースで報じられ、なにかと物議をかもしている大統領夫妻も、ホワイトハウスのベランダから珍しそうに日食の様子を眺めていましたね。 この「日食」は、もともと「日蝕」と書かれました。「蝕」は《食》と《虫》からできており、虫が食品をかじることですから、「日蝕」とは文字通り「太陽が虫食い状態になる」ことですが、昭和21年にできた「当用漢字表」に「蝕」が入らなかったので公用文などでは使えなくなり、それで「蝕」の書き換え字として「食」を使って、「日食」と書かれるようになりました。
「日食」という書き方はそれでわかったとして、では「皆既」とはいったいどういう意味でしょうか? 「皆」も「既」もおなじみの漢字で、「既」は一般的には「すでに」という意味で使われますが、「みんなすでに」では「皆既」はわかりません。実は「既」には「~~しつくす」という意味があって、「皆既」とは「すっからかんに~~してしまう」という意味なのです。
「既」という漢字は甲骨文字からすでに存在し、そしてそれは「即」という字と非常に密接な関係をもっていました。
ここで話は大きくかわりますが、かつて「中華そば」は、たまの外食時に中華料理屋さんで食べるか、または出前で取り寄せる「ごちそう」のひとつでした。そんな時にある食品メーカーが「即席ラーメン」(インスタント・ラーメン)を売り出しました。昭和33年のことでした。その時のインスタント・ラーメンは、麺をそのままドンブリに入れ、熱湯をかけてふたをし、しばらく待てばできあがりという簡単なもので、具どころか薬味すらついていませんでしたが、湯をかけるだけという手軽さがうけ、物珍しさも手伝って、この即席ラーメンは爆発的に売れました。
私も受験時代の夜食にはこれにずいぶんお世話になりました。夕食をしっかり食べたはずなのに、夜中の12時を回ると空腹になってきます。そんなときは深夜の台所でお湯を沸かし、ドンブリにいれた麺に熱湯をかけ、3分間が待てずにまだ固いのをかまわずに熱いスープとすする、・・決しておいしいものではありませんでしたが、冬の寒い晩には至福といえる時間でした。
古い時代の漢字を研究しはじめ、「即」という字に出あった時には、そんな受験時代の思い出があざやかに脳裏によみがえったものでした。「即」の左半分にある《皀》は足のついた台に食物が盛りあげられた形であり、いっぽう右半分の《卩》は、ひざまずいた人が口を大きく開けて、今にもその食物に食らいつこうとしている形を表しています。この形からこの字は「(食事の席に)即く」という意味になり、さらに「今すぐこれから・まもなく」という意味を示します。
そしてその人が顔を反対側に向けると、それが「既」という字になります。「即」と「既」はこのように兄弟の関係にある字で、「即」でも左にあった《皀》はご馳走を表しますが、その右にある《旡》は、ひざまずいた人が口を食物の方から反対方向にそむけた形を示しています。つまりこの字はもうおなかいっぱいで、食品から顔をそむけることを表しており、そこから「事柄がすでに終了した」という意味で使われるようになりました。 「皆既日蝕」の「既」は、まさにその「すべて終わってしまった」という意味で使われているのです。
≪参考リンク≫
・漢字ペディアで「即」を調べよう
・漢字ペディアで「既」を調べよう
≪著者紹介≫
阿辻哲次(あつじ・てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長
1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。
≪掲載資料出典≫
図版『甲骨文字典』北京工芸美術出版社、2010年
≪記事画像≫
記事上部:jFrog / PIXTA(ピクスタ)