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あつじ所長の漢字漫談13「贔屓」の語源は?

2017.10.26

あつじ所長の漢字漫談13「贔屓」の語源は?

 大学の定期試験でレポートを提出するのに、いまはパソコンで書いたレポートを締め切りまでに指定のサイトまでアップロードするか、あるいは担当教員にメールで提出するのが当たり前ですが、ネットどころかパソコンすらなかったころは、手書きで書いたレポートを担当教員に直接提出するのが一般的な方法でした。

 ある学生がレポートを、締め切り直前に、私の研究室まで走って出しに来ました。いつも前の席で熱心に講義を聞いていた学生なので、ちょっとねぎらいのつもりで冷蔵庫から冷たいお茶を出すと、彼は一気に飲みほし、さらに「先生、お願いがあります」といいます。何かと思えば、カバンから自分たちのサークルが刊行している雑誌を取り出し、これを読んで感想を聞かせてくださいとの希望でした。お安いご用だと思って持って帰り、時間がある時に読むと、かなり青くさい小説や詩が載っている純文学系の同人誌で、ほぉ、いまどきこれは珍しいなぁと思ったものでした。

 いくつかの小説がありましたが、うちのあるページで「先生のエコヒイキ」という表現に出くわしました。それが文中では「良子贔屓」と書かれ、「良子」に「えこ」とルビがついているのです。関西では「良い子」を「ええ子」と発音するので、おそらく関西出身者が書いたのでしょう。そして「エコヒイキ」を「自分にとって良い子だけに特別に目をかける」という意味だと考え、それで「良子」に「エコ」とルビをつけたのではないかと考えました。

 もちろんそれは間違いで、「エコヒイキ」は漢字では「依怙贔屓」と書きます。「依怙」は古いことばで「頼りにする」という意味、そこから「一方にかたよる」ことを表します。後半の「ヒイキ」はいまも使うことばで、特定の個人や組織に格別の配慮や援助をあたえること、漢字では「贔屓」と書き、パソコンで「ひいき」を変換すればちゃんとこの字が出てきます。

 でもこの「贔屓」は、昔の中国語では日本語と意味がかなりちがっており、非常に大きな力を発揮することができるもの、あるいはそんな力を発揮する行動を意味することばでした。古代の字書の説明では、北宋時代(11世紀)に作られた『玉篇』という字書に「贔は贔屓、力を作(な)すなり」とあり、また発音引きの字典である『広韻』にも「贔は贔屓、壮士の力を作(な)す貌(さま)なり」と記されています。



 博識で知られた楊慎(1488―1559)という文人が著した随筆『升庵集』によれば、「贔屓」とはもともと龍の子供の名前だったそうです。彼が書いている話では、龍には子供が9人いて、それぞれ独自の能力をもっていました。うちのひとりが「贔屓」で、彼は亀のような形をしていて、怪力の持ち主だから、重いものを背負うのが得意でした。だから石碑のような重いものを載せるのが彼の仕事とされ、石碑の台座のところに作られている亀が、実はその「贔屓」なのだそうです。

 中国の石碑は日本のものよりもはるかに大きいものがたくさんあって、それが亀の形をした台座の上に載せられていることがよくあります。有名なものでは、書道で楷書を学ぶお手本としてよく使われる顔真卿の「顔氏家廟碑」や、長安の街にキリスト教の一派(ネストリウス派)が流行したことを記録する「大秦景教流行中国碑」などがそうで、どちらも西安の「碑林博物館」に実物が現存します(「大秦景教流行中国碑」は、非常に精巧に作られたレプリカが京都大学総合博物館にあります)。

 そのような石碑の台座に使われる亀が龍の子供の一人である「贔屓」だというのですが、しかし石碑の台座に亀が使われるようになったのはそれほど古いことではなく、どうやら唐代あたりからのようです。古代中国の神話では、人間が暮らす大地は大きな亀の背中に載っていて、亀が歩くにつれて、太陽が東から西に移動すると考えられていました。一種の地動説といえますが、亀は大地を載せるほどの怪力の動物と意識されており、それがいつの間にか、石碑の台座の名前に反映されたのでしょう。

 「贔屓」はもともと大きな力を発揮するという意味で、そこから意味がひろがって、他人のために援助の手をさしのべることもこの言葉で表わすようになりました。日本語でその意味で使われた古い例には『日本国現報善悪霊異記』(僧景戒、略称『日本霊異記』)巻下に「法花経の神力、観音の贔屓」とする例があり、遅くとも平安初期にはその用法が日本に伝わっていたようです。

 なお「贔屓」はヒキと読むべきで、ヒイキは慣用音ですが、平安末期のイロハ式辞書である『色葉字類抄』にはヒキとヒイキの二種類の読み方が見えます。そうか、さてはヒキガエルのヒキもこれだなと思っていろいろ調べたのですが、残念ながら、それはどうもちがうようでした。


《参考リンク》
漢字ペディアで「贔屓」を調べよう

《著者紹介》
atsuji_muse.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像
阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。

《記事写真・画像》
・記事中の文献:澤存堂本『廣韻』
・記事上部の亀の石碑:山東省曲阜孔子廟にて著者撮影。

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