あつじ所長の漢字漫談15 パンの車って?~中国と日本の漢字の違い~

著者:阿辻哲次(京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長)
漢字ミュージアムではいま「東アジアにおける漢字の歩み展」を開催しており、日本と中国、韓国、そしてかつて漢字を使っていたことがあるベトナムについて、それぞれの国の文字の面でのつながりと、国ごとの文字の歴史的移り変わりを見ていただけるようにしています。もちろんこの地域では漢字がもっとも中心にあって、いまも中国では漢字が使われていますが、ただ街中では漢字の形を大胆にくずした簡略化字形(簡体字)が使われていることは、日本でもよく知られています。
中国語と日本語はもともとちがう言語ですから、漢字の形を同じにしたらすぐに理解できる、というような単純なものではありません。
数年前に開かれた高校の同窓会で、友人の一人が、会社を定年退職したので、長らく苦労をかけた女房と中国旅行をしてきた、という話をしだしました。ふむふむと聞いていると、中国語なんか漢字を見たらだいたいの意味がわかるだろう、とたかをくくっていたら、いたるところで見かける看板や掲示がまったく理解できないことに驚いた、といいます。なにを当たり前のことを、と内心では思いながら話の続きを聞いていると、古都西安観光のおりにバスが有名な「秦始皇兵馬俑博物館」の駐車場に停まったところ、すぐ近くに「小面包专用」と書かれた看板が立っていたのだそうです。このことばの意味は、中国語を勉強した経験のない人にはまずわかりません。特に「专」という字は、日本では使われない簡体字ですが、しかし彼はすでに中国滞在4日目で、簡体字にも少し慣れてきたところでした。それに夫婦ともにもともと書道のたしなみがあったので、それが「専」という字の草書体に似ていることに気づき、「专用」が「専用」であるとわかりました。
それだけでも実はたいへん立派なことなのですが、しかし「小面包」はまったくわかりません。それで通訳をしていたガイドさんにたずねると、なんとマイクロバスのことだというではありませんか。不思議に思った彼は、さらにガイドさんを質問責めにして、「面」が「麵」の簡体字として使われていることを知りました。「麵」は「めんるい」の麵ですが、でも「麵包」と書いても、それがなにかはわかりません。そこで彼はさらにしつこくたずねて「麵包」がパンのことだとまでわかりました。
しかし運悪く、バスの駐車位置をめぐってガイドさんが現地の係員ともめていたのでそれ以上の質問もできず、「小面包」がなぜマイクロバスという意味になるかは、とうとうわからずじまいだったそうです。
たまたま同窓会で出会った私が中国語の教師だったもので、彼から「たねあかし」を希望され、スライスしていない食パンの細長い長方形とバスの形が似ていることから、中国語ではバスのことを「面包車」、すなわち「パンの車」という、だから「小面包」が「マイクロバス」という意味になるのだと教えてやりました。
「面包車」では「面」が「麵」の簡体字として使われているので、日本人にはよけいわかりにくいのですが、簡体字を使わなくても、簡単な漢字で書かれながら日本人にわからない中国語はざらにあります。
ある時、漢字にかかわる遺跡や博物館をめぐるツアーに同行する解説者として、中国旅行にいったことがあります。参加者は 30 名前後なので大型バス1台で各地を効率よくまわれましたが、移動途中はひまだから、バスの車窓から目に入ってくるものについてよく質問をうけました。
なかでも多かったのが「正宗川菜」についてで、中国では大きな街でも小さな集落でも、街道に面した食堂とおぼしき店にしばしばこの四文字が書かれています。
この4文字には簡体字もなく、いまの日本語で非常によく使う漢字ばかりですが、でも意味がわからないのでよく聞かれました、あっさり答えを教えるのもつまらないので、時々は「どういう意味だと思います?」と聞き手をじらしたものでした。するとある時、「どこか有名な酒の生一本と、コイやフナなんかの川魚を食べさせる店ではないかなぁ」と答えた人がいました。
なにを言ってるのだ! ここは中国であって、信州や四国の渓谷にある料理旅館ではないんだよ! といいたい気持ちをおさえながら、おもむろにかつ穏やかに正解をあきらかにしたのですが、「正宗」とは「正真正銘の」という意味、「川菜」とは「四川料理」のことです。だから「正宗川菜」とは生粋の(辛さを手加減していない)四川料理という意味なのです。
ちなみに少々辛いものには自信があるという方でも、「正宗川菜」の店にはかなり気合いをこめて入ることをおすすめします。その辛さはそうなまやさしいものではないことを、私はこれまでになんども経験しています。
≪著者紹介≫
阿辻哲次(あつじ・てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長
1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。
≪記事写真・画像出典≫
・記事上部 マイクロバスの写真、記事中「正宗川菜」店は、著者撮影
・記事中「専」の草書体は、二玄社『大書源』より