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あつじ所長の漢字漫談16 イヌがクンクンとにおいをかぐことからできた漢字

2017.11.22

あつじ所長の漢字漫談16 イヌがクンクンとにおいをかぐことからできた漢字

著者:阿辻哲次(京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長)

 「自」という漢字は、もともと人間の鼻を正面から見た形にかたどった象形文字でした。それが、人が身振り手振りで自分を表すときに手の人差し指で鼻のあたまを指すことから、鼻をかたどった「自」が、やがて「わたし・みずから」という意味を表すようになり、さらにその後「自」がもっぱら「じぶん」という意味で使われるようになったので、本来の意味を表すために「鼻」という漢字が作られました。だから「鼻」の中に《自》という要素が含まれています(《自》の下にあるのは発音を表す要素です)。

 鼻を表す「自」は、また「臭」という漢字にも含まれています。ただし《自》と《大》の組みあわせでできている「臭」は、決して「大きな鼻」という意味ではありません。

「自」と「鼻」の象形

 「臭」については、ちょっとめんどうな話をしなければなりません。というのは、私たちがいま使っている「臭」は戦後の日本だけで使われている特殊な字形で、この漢字の正しい形は、《自》と《犬》を上下に組みあわせた形に書かねばなりません。このコラムでも何度か取りあげたように、現代の中国では漢字の形を簡略化しており、中にはずいぶん大胆な簡略化されたものもありますが、それでもこの漢字はいまも依然として《自》と《犬》を組みあわせた形で書かれています。

 漢字の構造はそうであるとして、それでは「臭」という漢字はどのような成り立ちなのでしょうか。「臭」は《犬》と《自》からなる会意字ですが、《犬》すなわちイヌは嗅覚が非常に発達している動物で、そのイヌと「自」=鼻を組みあわせることで、この字は「におい」、あるいは「においをかぐ」という意味を表しました。

「臭」の字形一覧

 ちなみにいまの日本語では「臭」を「くさい」と読み、「悪臭」や「加齢臭」「消臭剤」などもっぱら「好ましくないにおい」という意味で使います。最初にあげた写真は台湾の夜店で食通たちに人気がある「臭豆腐」を売る屋台ですが、その料理は名前のとおり、かなり強烈なにおいをはなちます。

 しかし「臭」はもともと悪臭だけでなく、芳香をも意味する漢字でした。『易経』という古い文献の中には、蘭の花のかぐわしい香りを「臭」という漢字で表現している例があります。

 この「臭」を構成要素とする「嗅」という漢字が、2008(平成20)年に「常用漢字表」改定を審議する委員会で議論になりました。

 「嗅」は五感の一つである「嗅覚」ということばによく使われるので、あらたに常用漢字表に入れる候補となり、そのことについては委員会でも異論はありませんでした。

 問題は、「嗅」という漢字の右側が、《自》と《犬》からなる「臭」の旧字体の形になっていたことでした。そしてこの字を新しく常用漢字とするのならば、右半分を「臭」と同じ形にあわせるべきだという意見が、何人かの国語教育関係者から述べられました。中学校や高校の国語の授業で中高生たちは「臭」という漢字を《自》+《大》の「臭」という形で学ぶのに、今回あらたに常用漢字表に入る「嗅」の右半分が《自》と《犬》になっていれば、《口》ヘンがついているかどうかで形がちがうことになり、教える側も学ぶ側も混乱してしまう、だから「嗅」を常用漢字表に入れるのなら、右側を「臭」にするべきである、という議論でした。

 その意見は、ちょっと聞いたところではかなり説得的であると思えます。そもそもこれまで頻繁に使っていた「嗅」の右半分が実は「臭」ではなく、下が《犬》になっていることに気がついていなかったという方も、読者のなかにたくさんおられるかもしれません。そしてそんなややこしいことになっているのだったら、この際「嗅」の右側を「臭」に換えてしまった方が覚えやすいし、教育の場における混乱も防げるのではないか、と考える人がいても不思議ではないでしょう。

 しかし実は、ことはそれほど単純ではないのです。試みにお手元のパソコンや携帯電話で「きゅうかく」と打って漢字に変換してみてください。間違いなく「嗅覚」と、つまり「嗅」は《自》+《犬》の形で出るはずで、右側が「臭」になっている字形は、特別の仕掛けをしないかぎり、機械では絶対に表示できません。ということは、「嗅」を常用漢字に入れるとともに右側を「臭」の形にしてしまうと、新しく常用漢字となった方の字形がパソコンやスマホなどでは表示できないということになってしまいます。これがとんでもない事態であることは、いうまでもありません。

 それならパソコンやスマホで表示される字形を《自》+《大》に換えたらいいではないか、という議論もあります。実際に委員会でそう主張される方もおられました。しかし情報機器で表示される字形は、個人では選べません。現在の日本で使われているパソコンやスマホ・携帯電話などの情報機器はいったいどれくらいあるでしょうか、おそらく数億台、いやもっとたくさんあるにちがいありません。さらにまた、これまでの作成された厖大なデータが、さまざまな媒体に保存されています。そのすべての機械で表示される字形を変更することはまず不可能ですから、機械やシステムをいじって字形を変えるという選択肢は現実的ではありません。

 それで、改定された常用漢字表では《自》+《犬》の形のままの「嗅」が入りました。

 「臭」と同じように、もともと《犬》だった部分を近年になって《大》にしたという例は、実はほかにもたくさんあって、「器」「突」「類」などに含まれる《大》の部分は、実は旧字体ではすべて《犬》と書かれていました。

 実にややこしい、そして不思議な話ですが、いったいなぜこのようなことになっているのかといえば、それは終戦直後に制定された「当用漢字」が、できるだけ簡単な構造で漢字を書けることを追求し、わずか一画でも、とにかく画数を減らそうとした結果です。でもそのために、文字本来の構造まで破壊してしまう、本来は許されないはずの簡略化が随所におこりました。それは戦後の混乱期に起こった、漢字にとっての悲劇でした。

≪参考リンク≫

漢字ペディアで「自」を調べよう。
漢字ペディアで「臭」を調べよう。
漢字ペディアで「嗅」を調べよう。

≪著者紹介≫

阿辻哲次先生
阿辻哲次(あつじ・てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。

≪記事写真・画像出典≫

・記事上部 台湾の夜店 著者撮影
・記事中「自」「鼻」の象形 『漢字演変500例』
・記事中「臭」字形一覧 二玄社『大書源』より

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