歴史・文化

あつじ所長の漢字漫談21「鬼」の話

あつじ所長の漢字漫談21「鬼」の話

著者:阿辻哲次(京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長)

 子ども達がまだ小さかったころ、泊まりがけの家族旅行で、日本海岸までカニを食べに行ったことがありました。兵庫県の山間部にあるわが家からは、高速道道路を使えば3時間ほどで日本海岸に出られるのですが、途中に「酒呑童子」伝説で知られる大江山があって、そこに「日本の鬼の交流博物館」があると聞いて、見学に立ち寄りました。ここは全国各地の伝統芸能や民芸品、絵巻や絵画、びょうぶ絵、さらには瓦などに見える鬼を網羅的に紹介し、鬼とはいったい何なのかをさまざまな方面から考えさせてくれる、非常に興味深くて面白い博物館です。

 「鬼」といえば恐ろしいものと多くの人は考えますが、この博物館では鬼を人の禍福(わざわいとしあわせ)を支配する、人間と非常に親密な存在と考えています。だからここに展示されている民芸品の中には、きわめて愛くるしい顔をした鬼もたくさんいます。鬼だってこんなに愛くるしければ、節分の時に豆をぶつけられずにすんだことでしょう。

鬼の古代文字

 古代中国人が想像した「鬼」は、きっとおどろおどろしい顔だったにちがいありません。だからでしょうか、「鬼」という漢字は中国語ではあまりいい意味には使われません。お酒がなくては生活ができない人のことを「酒鬼」といい、近ごろはあまり見なくなりましたが、ヘビースモーカーのことを「煙鬼」といいました。

 さらには、強烈に恐ろしい存在、あるいは憎むべき仇敵のことを中国語で「鬼子」といいます。「鬼子」は六朝時代の文献から見える古い罵倒語ですが、19世紀以降は主として外国人に対する非難に使われるようになりました。帝国主義時代に植民地で威張りちらし、わが物顔に暮らしていた欧米人のことを、中国人はこっそりと「洋鬼子」と罵ったものです。

 そしてそのきわめつけは、なんといっても「日本鬼子」です。これは戦争中に中国で残虐な行為をはたらいた旧日本軍兵士を指して使われた、非常に激しい罵倒表現です。

 私が中国語を勉強しはじめた1970年代の中国は「文化大革命」の真っ最中で、そのころの中国語学習人口などごくわずかでしたから、日本で手に入る中国語教科書はほんの数種類しかありませんでしたし、内容も中国で編纂された教科書をそのまま日本語に焼きなおして印刷したようなものばかりでした。だからそんな教科書には、日本の出版社から出ているにもかかわらず、残虐きわまりない「日本鬼子」が、勇猛果敢な「紅軍」(中国共産党軍)のゲリラ兵士や農民にこてんぱんにやっつけられる話がよく載っていたものでした。

 こんな話でしか中国語を勉強できなかったのですから、思えば哀しくて不幸な時代でしたが、しかし今では時代が大きくかわり、大学で中国語を選択する学生がすさまじい勢いで増えました。かつて私が勤めていた大学でも、フランス語よりも中国語受講生がはるかに多くなっていますし、文系ではドイツ語よりもたくさんの学生が中国語を学んでいます。他の大学でも事情は同様で、どこの大学でも中国語履修者が激増したのにあわせて、中国語を担当できるスタッフを集めるのにてんやわんやになっているのが現実です。

 こんな状況を出版社が見すごすはずがありません。かつては数えるほどしかなかった中国語教科書が、あっというまに、雨後のタケノコのように急増しました。その内容も、現代中国の政治経済に関するかたいものから、北京や上海での留学生活点描というべきもの、あるいは『中国グルメ紀行』というような楽しいものまで、実にバラエティに富んでいます。もちろん印刷は二色刷りだし、中には各地の風景写真などがふんだんに載っていて、まるで観光案内のパンフレットかと思えるほどに豪華なものまであります。

 かつての教科書で「鬼子」と呼ばれた者の子孫たちが学んでいる教科書に、旅行やグルメの話はあっても、「鬼子」はまったく出てきません。「時代」と「友好」という豆をぶつけられて、「鬼子」はどこかに行ってしまったのでしょう。

≪参考リンク≫

漢字ペディアで「鬼」を調べよう。
・「日本の鬼の交流博物館」(福知山市)ホームページはこちら

≪著者紹介≫

阿辻哲次先生
阿辻哲次(あつじ・てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。

●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
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≪記事写真・画像出典≫

・記事上部画像:日本の鬼の交流博物館(提供)
・鬼の古代文字:『漢字演変500例』北京教育出版社

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