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あつじ所長の漢字漫談26 猫は猛獣か

2018.03.26

あつじ所長の漢字漫談26 猫は猛獣か

 だいぶ前ですが、この連載の最初のほうで動物を表す漢字のうち、「猿」や「狐」のように《犭》ヘンをもつ漢字を取りあげましたが、その時に私は「猫」という漢字にわざと触れませんでした。数年前に亡くなった私の母は大のネコ好きで、子どもの頃は家にずっとネコがいましたので、私もネコが嫌いではないのですが、その漢字を取りあげなかったのは、実は「猫」を《犭》ヘンのグループに入れるのにはちょっとやっかいな問題があったからです。

 それはかなり専門的なことがらなので、このコラムにはあまりふさわしくないだろうと知らん顔をしていたのですが・・・さすがは漢検ホームページですね。漢検1級をお持ちの旧知の方が(困ったことに)このコラムを(相当詳しく)チェックしておられ、メールをくださいました。

 メールの中味は「《犭》ヘンを取りあげるのなら、同じように《豸》ヘンも取りあげるべきだ。そうでないと「猫」はわかるけど、その旧字体である「貓」がわからなくなってしまうではないか!」とのお叱りでした(実際にはもっとていねいな文体で書かれていましたが)。私は観念して、わざと避けてきたネコをめぐる漢字についても、あらためてきちんと書くこととしました。

 はじめに一枚の図版を見ていただきます。何やら難しそうな漢字が並んでいますが、これは唐の時代の776年に張参が作った『五経文字』という字書で、科挙の受験者に対して漢字の正しい字形を示すために作られたものです。



 ここでその本の中から《豸》部を切り出しました。「豸」は日本語では「むじな」と読み(音読みはチ)、中国で作られた古い字書によると、「豸」は猛獣が草むらにうずくまって獲物をねらっている様子を表しています。そしてこの漢字は、伝統的な漢字字典では七画の部首字とされていて、これをヘンとする「豹」(ひょう)や、「豺狼」(さいろう)ということばに使われる「豺」(やまいぬ)という漢字を考えると、《豸》が猛獣だといわれるのも不思議ではないと思えます。

 しかし《豸》ヘンの漢字は実はあまり多くなく、中でも猛獣を表す漢字は「豹」と「豺」くらいしか思いつきません。それでも検定の1級や準1級をお持ちの、漢字にかなり詳しい方なら、想像上の動物である「貘」(ばく)は銅や鉄をバリバリ食べる鋭い歯をもっており、それで人間の悪夢も食べてくれる、という話をご存じかもしれません。それ以外に《豸》ヘンの漢字で思いつくのは「貍」と「貂」、それに「貌」くらいでしょう。

 「貍」は「狸」の異体字でタヌキのこと、「貂」は高級毛皮を取るために乱獲されたテンですから、どちらも猛獣ではありません。「貌」は動物を表す《豸》と、人が仮面をつけたさまを表す「皃」をあわせた会意文字で、祖先に対するお祀りで演じられる踊りから「ありさま・様子」を意味した漢字ですが、その時の《豸》がどんな動物だったかはわかりません。

 ところが、ネコは『五経文字』ではこの《豸》部に入り、「猫」でなく、「貓」という形で書かれています。そしてそれは『五経文字』だけでなく、ネコは古くは「貓」と書かれていました。ネコは「豹」や「豺」とはまったく異なる、人間にフレンドリーな動物ですが、しかし狩りとしてネズミなどに狙いをつけるネコの姿は草原にひそむ豹やチーターのようであり、そのイメージはやはり《豸》で表すのがふさわしいと考えられたのかもしれません。

 古い文献で「貓」と書かれていたネコがやがて「猫」と書かれるようになってきたのですが、それがいつの時代からかはなかなか特定できません。ただ11世紀に作られた発音引きの字書にはすでに「猫」という形が載せられていますから、その頃には「貓」の略字として「猫」を使うこともあったようです。

 そのまま時間がたって、いまの中国では日本と同じように「猫」を使い、「貓」はほとんど使われません。しかし漢字を簡略化せず、いまも旧字体を使っている台湾では、ネコはやはり「貓」と書かれます。

 台北市の南郊外にある台北市立動物園は400種類以上の動物を飼育する東南アジア最大の動物園ですが、その駅からさらに南には、高級ウーロン茶や緑茶などが取れる台湾有数の茶処「貓空」というところがあって、そこまでロープウェイが通っています。全長約4キロあまりを25分ほどで進みますが、床までシースルーになっているゴンドラは、順番待ちの長い行列ができるほど大人気です。



 ロープウェイのことを中国語では「䌫車」というので、「貓空」に行くこのロープウェイは「貓䌫」と呼ばれます。そしてこのロープウェイはその名前にちなんで、日本の(株)サンリオと提携していて、駅の構内いたるところにキティちゃんがおり、ゴンドラにもキティちゃんの姿が描かれています。

 せっかくのかわいいキティちゃんですが、「猫」ではなくて「貓」と書かれているので、なんだか猛獣のように感じるのは私だけでしょうか。


《関連リンク》
漢字ペディアで「猫」を調べよう

《著者紹介》
atsuji_muse.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像
阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。
●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
 

《記事写真・画像出典》
・記事上部画像:貓空ロープウェイ駅  阿辻佳代子撮影
・記事中画像:『五経文字』 豸部 叢書集成所収本
       「ハローキティ看板」 台北MRT中山駅にて著者撮影

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