あつじ所長の漢字漫談29 医学用語にはなぜ難しい漢字が使われるのか?
著者:阿辻哲次(京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長)
かつて大学で中国語の講義を担当していた時、中級の教科書に「放松学习,就会落后(放松学習,就会落後)」という文章が出てきました。これは初級を終えたばかりの段階ではちょっと難しい文章ですが、翻訳担当者をあらかじめ指名していたので、しっかり予習してきた彼はこの文章を「勉強の気をゆるめたら、すぐ落ちこぼれるにちがいない」と完璧に訳し、講義のあとに私のところにやってきて、「いや~、『松』という漢字には手こずりました。『松を放る』ってなんだろうと思って辞書をひいたら『ゆるめる』という意味が出てきて、マツがなんでそんな意味になるのかとさらに調べたら、この『松』はめっちゃ難しい漢字の簡体字なんですねぇ・・・」と、予習時の「苦労」を語りました。
たしか経済学部の学生だったのに、よく調べたね、と褒めてやりたくなりました。彼が調べたように、この「松」は「ゆるめる・緊張を解く」という意味の「鬆」の簡体字として使われており(「松」と「鬆」は同じ発音)、その使い方について、大学などでたくさんの中国語学習者に使われている辞典の関連部分を掲げておきました。
図版からわかるように、この辞典では「松」が見出し字となっていて、そこに「〈植〉マツ。マツの木」と、誰でも知っている植物としての意味が書かれています。重要なのはその次で、そこに「(2鬆)」と書かれているのは、「松」が2以下の記述では「鬆」の簡体字として使われている、ということを表しています。
2以下の部分にあげられている用例での「松」は、その本来の字形である「鬆」の簡体字で、「ゆるめる」とか「緊張を解く」という意味として使われていて、たとえば「ベルトを少しゆるめる」ことを「松一松腰帯」という、などと書かれています。この辞書には載っていない言い方ですが、のんびりと楽しく暮らすことを「軽鬆(松)愉快」といいます。
そしてそれとは別に、6の項目にあるように、中国には魚や肉を干してから粉末状にほぐした「でんぶ」すなわちフレーク状の食品があって、乾し肉のフレーク「肉鬆」(肉でんぶ、簡体字では「肉松」)は、朝食のお粥にふりかけて食べる人がたくさんいます。写真は台湾からやってこられたお客さまからいただいた「マグロでんぶ」で、ラベルには「魚鬆」と書かれています。
「松」と「鬆」はもともとまったく別の漢字でしたから、『康煕字典』など伝統的な字典では「鬆」が単独で見出し字となっています、たしかに「鬆」はその学生がいうように「めっちゃ難しい漢字」であって、日本語ではめったに見かけませんが、それでもまったく使われない漢字ではありません。というのは、主に高齢の女性を苦しめる、骨がだんだんもろくなってきて骨折しやすくなる疾患「骨粗鬆症」に、この漢字が使われているからです。
「骨粗鬆症」とは、加齢とともにだんだんと骨の密度が低下して、骨が「粗」く、「鬆」(ゆるんだ)状態になる症状です。つまり骨の中がスカスカになって、ちょっと転んだだけで骨折しやすくなるというおそろしい病気で、特に高齢の女性に多いのだそうです。人間ドックの検査項目になっていますから、「こつそしょうしょう(骨粗鬆症)」という、舌を噛みそうなほどにいいにくく、まるで早口ことばのような名称をどこかで聞いたことがあるという方も多いでしょうし、街中の小さなお医者さんでも検査が可能です。冒頭の写真は私がかかりつけとしている医院の廊下に貼られていたチラシで、注射でも痛みを緩和できると書いてあります。
しかし「鬆」はやはり難しい漢字で、パソコンや携帯電話では「しょう」を変換すると書けますが、常用漢字には入っていませんから学校でも習いません。写真で掲げたチラシにはふりがながついていますが、一般的には「骨粗しょう症」と混ぜ書きで書かれることもよくあり、むしろそちらの方が多いと思います。
私たちはふだんあまり意識しませんが、身体器官やお医者さんが使う病名などの医学用語には、この「骨粗鬆症」のように、非常に難しい漢字がたくさん使われています。ちょっと考えるだけでも、膵臓 腎臓 脾臓 潰瘍 腫瘍 齲歯 蕁麻疹 靱帯 痔瘻 などなど、いくつかは見慣れてはいるけれど、書けといわれてもそう簡単には書けないことばが、それこそ枚挙にいとまありません。
病気や内臓など、医学に関する用語にこのような難しい漢字を使ったことばが多いのは、もともと日本の医学が過去の漢方医学の伝統をふまえているからです。明治以前のお医者さんはほぼすべて漢方医ですから、漢字で書かれた中国の医学書で勉強してきた人々で、彼らは医者であると同時に、儒学者でもあるのが普通でした。だから杉田玄白が『解体新書』を作ったり、明治維新前後に西洋から近代医学に関係する外国語(オランダ語または英語)が大量に入ってきた時にも、原語を日本語に訳して新しいことばを作るのに、漢字に詳しい儒学者兼医者がそれまで使われていた伝統的な医学のことばをふんだんに導入した、というわけです。
あるとき、頬にイボができました。あまり大きくならないうちに取ってもらおうと、かかりつけの医院に行ったところ、「これはウイルス性のユウゼイですね」と告げられました。「ユウゼイ」は「疣贅」で、あとの漢字は「贅肉」という語彙に使われるからまだ馴染みがありますが、「疣」はめったに使われない漢字です。こういう言い方をされると、医学に無知な素人にはイボもなんだか格調の高い病気のような気がして、「先日ユウゼイを治療してね」と、しばらくの間は友人たちに自慢げに言い触らしたものでした。
≪参考リンク≫
≪著者紹介≫
阿辻哲次(あつじ・てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長
1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。
●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
≪記事写真・画像出典≫
記事上部:骨粗鬆症チラシ 著者撮影
記事内部:中国語辞典「松」小学館『中日辞典』
肉鬆 外と中身 著者撮影
康煕字典 「鬆」清内府刊本