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あつじ所長の漢字漫談31 羊の巻

2018.05.22

あつじ所長の漢字漫談31 羊の巻

著者:阿辻哲次(京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長)

仮名垣魯文『安愚楽鍋』に描かれた牛鍋を食べる人  非常に古い時代に仏教が国の中心的な宗教になってから、日本では「殺生禁断」の教えによって、動物の肉をほとんど食べないようになったので、肉食の歴史はそれほど長くはありません。それでも今年は明治150年、つまり明治維新から150年目にあたり、「文明開化」とともにさまざまな西洋式の文明がひろまって、牛肉を食べる習慣もしだいに普及し、その傾向が戦後さらに急激に進みました。いまではどんな小さな街にも一軒くらいは焼き肉屋さんがある状況になっていますが、それでも日本で実際に食用に供されるのはほとんどが牛か豚、あるいは鶏の肉で、ことあるごとに「ジンギスカン」を楽しむ北海道の人を別とすれば、日本人は羊の肉に対してそれほどなじんでいません。

 しかし世界的な視野で考えれば、宗教的理由または生活習慣によって豚や牛の肉を食べない地域がたくさんあって、実際日本でも、中東地域や中国のシルクロードあたりからやってきた豚を食べないビジネスマンや留学生には、日本の一般的なスーパーには羊肉があまり売られていないことに困っている人も数多くいます。いまの世界各地でもっともよく食べられている動物は、おそらく羊であることはまちがいないでしょう。

『詩経』に載っている「君子于役」という詩 羊はとてもおとなしく、繁殖力も旺盛ですから、牧畜にもってこいの動物です。遊牧の起源はおそらく紀元前にさかのぼるでしょうが、その最初から羊の放牧がおこなわれていたにちがいありません。

 羊の放牧は中国でも非常に早い時期からおこなわれていたようです。現存最古の詩集である『詩経』(国風・王風)に「君子于役」(くんしうえき)という詩があって、その一節に「雞は塒(ねぐら)に棲(す)み、日の夕べには、羊と牛は下り来たる」とうたう部分があります(図版3~4行目)。ここに登場する羊と牛は、夕暮れになるとちゃんと山の麓に下りてくるというのですから、おそらく放牧されていたにちがいありません。

 中国の戦国時代には、さらに羊の肉を販売する店まですでに街中にあったようです。『春秋左氏伝』(襄公30年、紀元前543)という文献に「伯有(はくゆう) 羊肆(ようし)に死す」(伯有という人物が「羊肆」で死んだ)とあり、賢人で知られる鄭の子産が彼を悼んで、死体に着せる衣服をもっていって号泣したという話があります。ここに「羊肆」ということばが見えますが、「書肆」といえば書店のことですから、「羊肆」というのも、文字の意味から考えて、おそらく羊の肉を販売していた店だろうと思われます。

 さらに古い時代には、羊の肉は宗教的な行事でいけにえの動物としてさかんに使われ、そのことがいくつかの漢字に反映されています。


甲骨文の「美」 古代の王や貴族の家でご先祖さまに対するお祭りがおこなわれる時には、何かの動物が犠牲として祭壇に供えられました。犠牲とされる動物はお祭りの重要度によってちがい、もっとも重要な祭りでは牛が使われましたが、牛は農耕に使う貴重な役畜でしたから、そんなにたくさん使うことはできません。それで、一般的なお祭りでは、繁殖力の強い羊がもっともよく使われました。


 いまの私たちでも、お盆の時にはなるべく大きなスイカや野菜などをお仏壇の前にお供えしようとしますが、古代においても、先祖の神さまに捧げる犠牲は、できるだけ大きくて豪華なものが望ましいとされました。犠牲が大きければ大きいほど神さまは喜ばれましたし、お祭りに参加した者たちが後で食べる「おさがり」も、当然それだけ多くなるわけですからね。だからお祭りにかかわる者たちは、なるべく大きな羊を選んでお供えしました。そこから《羊》と《大》を組み合わせた漢字が作られ、「りっぱなもの」という意味を表しました。それが「美」という字です。


 この犠牲の羊を解体して食肉に加工する時には、庖丁のかわりにノコギリが使われました。そしてこの時代では、ノコギリのことを「我」という漢字で表していました。「我」は、漢文の中でももっともよく使われる「自分・わたし」とう意味の漢字ですが、もともとはノコギリの象形文字でした。そしてその時代では、「わたし」ということばとノコギリを意味することばが同じ発音だったので、ノコギリの「我」をあて字に使って「わたし」という意味を表すようになったというわけです。

甲骨文の「義」


 このような「我」すなわちノコギリで羊の肉を切り取るのは、神さまにささげる神聖な肉を作るためであり、だから肉を切り取るのは当然敬虔な気持ちでおこなわなければなりません。その時のうやうやしく敬虔な心情を「義」という漢字で表しました。「義」が《羊》と《我》とで構成されているのはそのためなのです。



≪参考リンク≫

漢字ペディアで「羊」を調べよう
漢字ペディアで「肉」を調べよう

≪著者紹介≫

阿辻哲次先生
阿辻哲次(あつじ・てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。

●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
 『角川新字源 改訂新版』のバナー

≪記事写真・画像出典≫

記事上部:ニュージーランドの牧場の羊 阿辻佳代子撮影
記事中:牛鍋を食べる人 仮名垣魯文『安愚楽鍋』 国立国会図書館
    『詩経』國風 王風 「君子于役」 汲古閣刊本毛詩
    美・義の甲骨文字 『大書源』二玄社

    
 

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