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あつじ所長の漢字漫談38 「藝」と「芸」と「艺」について

2018.08.22

あつじ所長の漢字漫談38 「藝」と「芸」と「艺」について

 むかしの中国で学問の中心にあったのは儒学の経典、いわゆる「四書五経」であり、うちの一つである『周礼』(しゅらい)という本には、貴族の子どもたちが通う学校では「六藝(りくげい)」が教えられていたと書かれています。「六藝」とは子どもたちが学校を卒業して社会に出た時に、りっぱな紳士としてかならず身につけておかねばならない六種類の教養科目のことで、具体的には「礼・楽・射・御・書・数」(各種式典での作法・音楽・弓術・馬術・文字・算数)を指しています。

 これらの学習科目を「藝」で表現したのは、もともと「藝」という漢字が木や草の苗を地面に植えようとしている形を表していることに由来します。野菜でも果物でも、土に苗を植えて上手に育てれば、やがて豊かな実りを得ることができます。それと同じように、人がまだおさないころからすぐれた内容をもつ教育をあたえれば、やがてその人の精神に豊かな教養が芽生え、大きく花開くことを、古代の中国人は「藝」という漢字で表現したというわけです。

 いっぽういまの日本ではこの「藝」を「芸」という形で書きますが、それは「藝」の上と下の部分を組みあわせると「芸」という形になることによる使い方です。「芸」を「藝」という意味で使う使い方は戦前からありますが、戦後まもなく制定された当用漢字で「芸」が正規の字体とされました。また文部科学省の学習指導要領によって、「芸」は小学校4年生での学習漢字に配当されていますので、いまの日本では「芸術」とか「芸能」という書き方にほとんどの人は疑問をもちません。

 しかし「芸」は本来「藝」とはまったく関係ない別の字で、もともとは防虫効果のある草のことでした。この草から発散される香りを虫がいやがることから、古くは大切な書物を保存する所にこの草を敷き詰めて、書物を紙魚の被害からまもりました。

 だからこそ、日本最古の図書館である「芸亭」の名前にこの字が使われています。「芸亭」を建てたのは奈良時代末期の公卿であった石上宅嗣(729-781、いそのかみのやかつぐ)。文人であり、また書道の面でも草書や隷書をよくした宅嗣は経書や歴史書にもよく通じており、当時は貴重であった書物をたくさん所蔵していました。その書物を保存するために、宅嗣は自宅の庭の片隅に書庫を設けて、自分の蔵書の一部分を一般の人にも閲覧させました。これが日本最初の公開型図書館とされており、それを「芸亭」と命名したのは、書物を虫害からまもるために書架の下に草を敷き詰めたからでした。だからこの「芸亭」は「ゲイテイ」でなく、「ウンテイ」と読まなければなりません。

 このような用例が過去にあったにもかかわらず、日本では鎌倉時代あたりから「芸」を「藝」の略字として使いつづけてきました。そして戦後に定められた「当用漢字」で、その略字を「藝」にかわる規範的な字体としたのですが、それはまことに浅はかな行為だったと私は思います。ちなみに雑誌『文藝春秋』や日本文藝家協会が「芸」を使わず、一貫して「藝」を使いつづけているのは、まことに正しい見識を示すものだといえるでしょう。

 ところで、この「藝」を今の中国で使われる簡体字では「艺」と書きます。これはもともと1930年代の日中戦争の時に共産軍が革命根拠地で作った漢字で、「藝」(yì)の発音が「乙」(yǐ)とよく似ている(声調がちがうだけ)ことを利用した簡体字です。

 いっぽう中国人が「藝」の簡体字として「芸」を使うことは絶対にありません。現在の中国語では「芸」という文字をほとんど使いませんから、日本語の学習経験がない中国人は、これまで「芸」という漢字を見たことがほとんどありません。だから日本にやってきた中国人が、博物館や物産展などでしばしば目にする「工芸品」ということばがわかりません。「芸術」という書き方も、かなり日本語に通じている人以外にはいささかやっかいなようです。

 中国を大混乱におとしいれた文化大革命が1976年に終わり、中国と日本の学術交流がしだいにさかんになりだした1970年代の末期、私は大学院博士後期課程に在学する大学院生でした。当時の中国は4つの現代化というスローガンを掲げ、特に科学技術の現代化達成を目指して、世界各地の大学の理系の研究者たちと積極的に交流していました。

 京都大学にも中国からたくさんの代表団が訪れ、熱心な学術交流がおこなわれました。しかし日本の理系学者には中国語が話せる人がほとんどいませんし、同様に中国人にも日本語が話せる研究者はほとんどいませんでした。もちろん学術交流は英語でおこなわれるので、その点はまったく心配ないのですが、しかし食事やちょっとした接待、あるいは京都市内観光まで英語でするのは双方にとって面倒なので、だから私たち中国文学科の院生が、市内観光や歓迎宴会の通訳などにしばしば駆り出されました(それはけっこうおいしいアルバイトでした)。

 あるとき中国から来た精密機械工学の専門家で、人工衛星の表面に取りつける反射鏡を研磨する機械を製作しておられる方のお相手をして、京都国立博物館をご案内しました。そのときは工学部の助教授が同行してくださり、中国からの研究者はその助教授とは英語で、私とは中国語で話すという複雑なことになっていました。

 見学が進んで、ある部屋まできた時に、入り口に「工芸品」と書かれていたのを見て、中国人研究者は「これはどういう意味だ」と私にたずねられたのですが、そのとき彼はうっかり英語で私に話しかけてこられました。私はもちろん中国語で返事をしたのですが、そのやりとりをすぐ近くで見ていた工学部の先生が、「あの先生はどうして『工芸品』という簡単な漢字がわからないのか?」と、あとで私に不思議そうにたずねてこられました。

 しかしその助教授がもし中国の博物館を見学し、「工艺品」という「簡単な漢字」を目にしても、きっと意味がわからないにちがいありません。

《関連リンク》
漢字ペディアで「芸」(げい)・「藝」を調べよう
漢字ペディアで「芸」(うん)を調べよう

《著者紹介》
atsuji_muse.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像
阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。
●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
 

《記事写真・画像出典》
記事上部:著書の職場にある孔子像のプレート
記事内画像:藝の甲骨文字 『甲骨文字典』北京工芸美術出版社、2010年
      芸亭伝承地の碑 著者撮影

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