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あつじ所長の漢字漫談39 「温故知新」は、なぜ「温める」のか

2018.09.11

あつじ所長の漢字漫談39 「温故知新」は、なぜ「温める」のか

 京都の中心部に漢字の博物館を作るという計画をはじめて聞いた時、私は大学の教員だったので、ふ~ん、漢字の博物館かぁ、どんな中身なのかなぁ・・・とまったく他人事でしたが、場所が祇園だと聞いて、耳をうたがうほど驚きました。京都の中でも、祇園は京都らしさがもっともよく現れているとされる地域で、一年を通じて、朝から晩まで、国内外から驚くほどたくさんの方が観光に来られますが、そんなところに漢字の博物館なんか作って大丈夫なのか? と部外者だった私はずいぶん心配したものでした。

 祇園といえば、舞妓さんや芸妓さんたち「きれいどころ」が夜ごとに開かれる宴席に花を添え、精進を重ねている芸を披露する華やかな街というイメージが強く、そんなところに「漢字」みたいにおカタいものが出てくるのは野暮の骨頂ではないか、と考えたわけですが、それがまったくの杞憂であったことは、この2年間あまりに20万人を超える方が見学にお越しくださったことで完全に証明されました。

 当ミュージアムに連日たくさんの方が見学においでくださっていることに対して、ここであらためてお礼を申しあげます。

 祇園は、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」七段目で大星由良之助(大石内蔵助がモデル)が遊んだとされる、日本を代表する花街です。祇園のように、飲食を提供する座敷において、女性たちが歌舞音曲などを熟達した技量で披露する世界を「花柳界」といいますが、これはもともと中国出身のことばでした。

 中国では街の並木によく柳が植えられています。風雅な庭園にも柳はよく似あいますし、水辺や湖畔などでも風景にうまく調和します。そして過去の中国の色街は種々の花で飾られ、並木として柳が植えられました。そこから色街のことを「柳巷花街」といい、これが日本語にはいって「花柳界」といわれるようになりました。漢字ミュージアムが面している四条通りには柳はありませんが、通りを北にこえてしばらくいった「新橋」とよばれるあたりでは、風情のある街並みにうまく柳がとけこんでいます。

 強烈だった今年の猛暑も、朝夕はようやく少し収まりだしたころ、漢字ミュージアムから南にいったところにあるお茶屋さん街のあちらこちらに、「錦秋の舞 温習会」というポスターを見かけるようになりました。

 学生時代から定年退官するまでずっと大学周辺の学生街を根城にしていた私は、この「温習会」とやらがいかなるイベントなのかまったく知りませんでしたが、商売柄、「温習」ということばの意味はわかりましたので、きっと舞妓さんたちがこれまで習ってきた舞や謡曲などの成果を発表する会だろうなと考え、そしてその推測はだいたい当たっていました。

 祇園(正確には祇園甲部)の舞妓・芸妓さんたちは日ごろから「京舞」井上流のお稽古にはげみ、その努力の成果を、春は「都をどり」、秋は「温習会」の場で披露されるとのことで、都をどりの公式ウエブサイトでは「温習会」について「京舞井上流・五世井上八千代師(人間国宝)ご指導のもと、日頃より重ねている精進の成果を披露する、錦秋の恒例舞台です」と記されています。

 さてここから漢字ネタです。この「温習」は、このままの形では中国の古典文献にはほとんど見えないことばですが、はじめの「温」は『論語』にある有名な文章に基づいています。

 漢文の授業で習った方も多いと思いますが、『論語』の「為政(いせい)」篇に「子曰、温故而知新、可以為師矣」(故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知れば、以って師と為るべし)とあります。ざっと訳すと、「むかしからの教えを思いだして大切にし、そこに新しい知識をつけくわえることができれば、人を教える師範となることができる」という意味で、ここから「温故知新」という四字熟語が作られました。

 ここに見える「温故」は、伝統的に「故きを温(たず)ねて」と読むことになっています。でも「温」は「あたたかい」とか「あたためる」という意味で使う漢字で、「たずねる」という意味で使うことは「温故」以外にはありません。ではいったいなぜ「温」を「たずねる」と読むのでしょうか?

 それは、実は『論語』で標準的とされる注釈にそう書かれているからなのです。

 もともと中国の古典にはそれぞれ基準となる注釈が決められていて、『論語』では魏(ぎ)の時代に何晏(かあん、249年没)という人が作った『論語集解(しっかい)』がそれにあたります。

 右の図版で、大きな漢字で書かれているのが『論語』の本文、それに続いて「疏」とある部分まで、小さな字で2行にわたって書かれているのが何晏の注釈です。漢文はもともと句読点がまったくついていないので、慣れていない人はちょっと読みにくいでしょうが、そこに「温は、尋ねるなり、故(ふる)き者を尋繹(たずねきわめること)し、また新しき者を知れば、以て人の師となるべし」と書かれています。この記述から、日本では「温故」を「故きをたずねて」と訓読しているわけですが、しかし「温」という漢字にもともと「尋ねる」という意味があったかどうかは、調べてみないとわかりません。

 さて「温」(旧字体では「溫」)にはサンズイヘンがついていますが、そもそもこの漢字にサンズイヘンがついているのは、いったいなぜなのでしょうか?

 それは、「温」はもともとある川の名前を表すために作られた漢字だったからです。中国最古の字典『説文解字』によれば、いまの貴州省から江西壮族自治区にかけて流れ、そこで黔江(けんこう)という川に合流する「温水」という川があって、「温」はもともとその川を表すために作られた漢字でした。ただし今の中国ではこの川は「洪江」という名前で呼ばれていて、温水という名前は使われていません。

 この「温」の右側には、旧字体では《皿》と《囚》を組み合わせた形があって、そこから『説文解字』はこの部分を「囚人に食べさせる料理」と解釈しています。しかしそれはおそらく間違いで、《囚》となっている部分はもともと、加熱された容器の中に湯気がいきわたっている様子を表していると考えられます。つまり「溫」の右側は「冷めてしまった食品を温ためなおす」という意味で、『説文解字』の注釈を書いた段玉裁は、この字について「微火をもって肉を温める也」、つまり、とろ火で肉をあたためることと解釈しています。ここから意味が拡張されて、本来は川の名前であった「温」がやがて「あたためる」という意味で使われるようになったというわけです。

 電子レンジが普及した今は、冷めてしまった料理を簡単にあたためることができますが、そんな便利な道具ができる前でも、冷めた料理をあらかじめ決められた手順にきちんとしたがって温めれば、ふたたびおいしく食べる事ができました。

 そしてそれは料理だけでなく、日々に精進を重ねている学問や技芸の習得においても同じことで、以前に学んで身につけた基礎を思いだし、それを一定の手順にしたがって「温=たずねて」おさらいし、より一層の努力を重ねることで、さらに高度な境地に到達できるようになる、それが学問や芸術での「温習」ということでした。ちなみに「習」に《羽》がついているのは、ひな鳥が羽根を動かして空を飛ぶ稽古をするからで、習とはお手本のまねをして、技術に上達することを意味しました。

 「漢字」を看板に掲げて、華やかな祇園の街の一画に加えていただいて2年あまり、京舞などとはまったく縁の無い野暮天であることは棚にあげて、今年はご近所さんのそんなあでやかで美しい姿を、自分の目にしっかりと焼きつけてこようとたくらんでいます。

《関連リンク》
漢字ペディアで「温」を調べよう
漢字ペディアで「舞」を調べよう
漢字ペディアで「温故知新」を調べよう

《著者紹介》
atsuji_muse.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像
阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。
●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
 

《記事写真・画像出典》
記事上部:京都 花見小路通りから祇園町南側 著者撮影
記事内画像:温習会ポスター 著者撮影
      「温」篆書 二玄社『大書源』

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