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あつじ所長の漢字漫談49 鴨太郎と鴨美――子どもの名前につけたい漢字

2019.04.04

あつじ所長の漢字漫談49 鴨太郎と鴨美――子どもの名前につけたい漢字

 平成16年(2004)2月のある日、自宅に電話がかかってきて、いきなり「こちら法務省民事局の検事ですが」と名乗られました。法務省の検事から電話がかかってきたら、だれだってきっとびっくりするにちがいありません。なにごとだろう、なにか悪いことをしたのだろうか……、もしかしたらこのあいだ午後から雨が降ってきた日に、だれかが教室に忘れていった傘をこっそり失敬したのがばれたのだろうか……というのはもちろん冗談ですが、ともかく受話器をもつ手にかなり緊張が走ったのも事実でした。

 気持ちを落ち着かせて、あらためて用件を聞いてみれば、このたびあらたに「人名用漢字」を追加するための委員会を設置するので、貴殿にもぜひその議論に参加していただきたいとのことで、ほっとしました。

 それからしばらくして、民法学者を委員長とし、法曹界や文化庁、経済産業省の関係官、それに新聞・放送業界などで構成される「法制審議会人名用漢字検討部会」が設置され、私も漢字研究者という肩書きで参加しました。

 日本国籍をもつ子どもの名前については、昭和23年にできた「戸籍法」第50条に

1.子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。
2.常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。

と書かれています。しかし「常用平易」とは要するに「よく使われて、わかりやすい」ということですから、これだけでは何をもって「常用平易」の基準とするかがわかりません。それでこの委員会でははじめに、その時点では人名に使えない漢字についてデータベースを作り、個々の漢字の「常用平易」性を判断する、ということになりました。判断に際しては文化庁国語課が作成した『漢字出現頻度数調査』という膨大なデータが主要な論拠とされましたが、それ以外にも、民間から役所に出されている人名漢字に関するたくさんの要望が、重要な判断材料とされました。

 そもそもこうして会議を開いて人名用漢字を追加することになったきっかけの一つに、あるテレビ番組がありました。それはテレビ東京系で放送されていた『ジカダンパン 責任者出てこい!』(2002年10月から2003年7月まで放送)で、そのころ絶大な人気をほこっていたみのもんた氏が司会し、世の中のさまざまな問題について、レギュラー陣とスタジオ参加の視聴者が、その問題に関する業務に従事している人物と直接対決=「ジカダンパン」するという番組でした。

 2002年12月9日放送のその番組で、人名用漢字が取りあげられました。といっても、その番組は関西では放送されていないので私は見ていませんが、のちに人から聞いたところでは、「舵」という漢字を記載した出生届が受理されなかったことに納得できない夫婦が登場し、また渡辺喜美衆議院議員(当時)が、「梨」は使えるのに自分の選挙区(栃木県)の名産である「苺」が名前に使えないのは理不尽であると法務省に問いただし、最終的には渡辺議員が法務大臣に掛けあって善処を依頼する、という展開だったそうです。なおその番組では「舵」や「苺」のほかに、人名に使いたい漢字として「牙・凛・遙・漣・鷲・雫・仍・煜」などがあげられたそうです。

 私にも経験がありますが、生まれた子どもの名前を考えるのはとても幸福な作業です。だから、そうして一生懸命考えた名前を記した出生届を役所にもっていった時に、この漢字は使えませんといわれたら、そう簡単に「おや、そうなのですか」と引き下がれるものではないでしょう。がっかりする人も、またせっかく選んだ漢字が使えない理由を窓口で係官に問いただす人もいるでしょう。さらには「不服申し立て」をおこない、裁判という手段に訴える人だって、現実にたくさんおられます。

 役所の方でも、不受理となった漢字について手をこまぬいていたわけではなく、提出された出生届にあった使えない漢字を、今後の検討課題として記録に残していました。人名用漢字の審議会では、法務省に集まっていたそんな要望が検討され、その結果として「苺」のほか「撫・芭・桔・梗・匂・鷲・燕・琥・珀・萌・蹴・柑・橙・舵・煌」などが議論の結果、人名用漢字に採用されました。

 しかしこの「要望」にもいろいろあって、中には首をひねりたくなる漢字も含まれており、うちの一つに、「腥」という漢字を名前に使い、「あきら」と読ませたいという要望がありました。

 いまの日本では子どもが生まれると14日以内(日本国内で生まれた場合)に「出生届」を出すことになっています。この届けに新生児の名前を記入するのですが、日本国籍をもつ子どもの名前(法的には「子の名」といいます)は、ひらがなとカタカナ(どちらも「ゐ」とか「ヱ」のような変体仮名は使えません)、及び常用漢字と「人名用漢字」しか使えないことになっています。時々誤解している人がおられますが、子の名にABCなどのローマ字は使えません。もしローマ字を認めれば、アラビア文字やキリル文字(ロシア語を書く文字)、あるいはハングルなども認めないと不公平になりますが、もしそうなったら、学校や会社の名簿などは大変なことになってしまいます。

 それで、ひらがな・カタカナと一部の漢字を使って、両親や祖父母などのさまざまな思いをこめた名前を出生届に記載するのですが、この時の漢字は、名前に使えるものであれば、それをどのように読もうとまったく自由とされています。というのは、出生届に基づいて作られる戸籍には名前の読み方を書く欄がないからです。

 パスポートの取得や婚姻届などで戸籍謄本(または抄本)を取ったことがある人なら覚えておられるかもしれませんが、戸籍には名前の「読み」がどこに も書かれていません。だから極端なことをいえば、たとえば「山」という漢字を「かわ」と読んでも「うみ」と読んでも、役所は知ったことではないのです。

 皆さんのまわりにも、えっ、この漢字でこう読むの? と驚くような名前をおもちの方がおられることでしょう。

 私の知人には「東」と書いて「はじめ」と読む人がいます。「東西南北」の最初だからそう読むとお父さんが決めたのだそうで、だれも正しく読んでくれないと友人は嘆きますが、こんな判じ物、なぞなぞのような名前を「正しく」読める方が不思議です。でも最近のキラキラネームには、「月」で「るな」と、「本気」で「りある」と読ませるような、この種の名前がいっぱいありますね。

 だから「腥」を「あきら」と読ませたいという希望も、それほど奇矯というわけではないのかもしれませんが、その時の会議で聞いた説明では、《日》と《月》を組みあわせた「明」が「あかるい」という意味なのだから、《月》と《星》を組みあわせた「腥」だって、同じ意味になるはずだ、と申請者は考えていたそうです。

 しかしこれはとんでもないまちがいで、この「腥」という漢字についている《月》は空に浮かぶ天体の「月」=moonではなく、「胴」とか「腹」などにもあるニクヅキです。そして「腥」は、ちょっと漢字に詳しい人ならよく知っているように、「なまぐさい」という意味を表す漢字です。そんな漢字を名前につけられた子どもが、やがて成長して自分の名前の漢字を辞典で調べたときには、きっとびっくりすることでしょう。名前の漢字をめぐって、いじめや嘲笑が発生する可能性だって十分に考えられます。もちろんこの漢字は追加するべき人名用漢字とはされませんでした。しかしそれにしても、子どもに名前をつける時には、せめて漢和辞典くらいは引いてもらいたいものです。

 この時の会議では半年間の審議の結果、700近い数の漢字が追加され、常用漢字のほかに「子の名」に使える人名用漢字が合計983字となって、2004年9月27日から出生届に記載できるようになりました。

 この時に新しく追加された漢字の中に「鴨」が含まれていました。

 その会議が開かれた日、昼休みに知人と昼食をとるために東京・新橋近くの蕎麦屋に入った私は、ちょうど「鴨」という漢字が追加候補になっていたので「鴨南蛮」を注文しました。関西で「鴨南蛮」というと基本的にはうどんですが、東京の蕎麦台のも私は大好きで、おいしくいただきながら、話のついでに、鴨とネギがのった麵をなぜ「鴨南蛮」というかについて、かつて大阪のうどん屋のご主人から聞いた話を知人に披瀝しました。

 聞いたところでは、大阪ミナミの大繁華街難波は明治時代まで一面のネギ畑だったそうで、古い時代の大阪ではネギのことを地名から「ナンバ」と呼んでいました。それで鴨肉とネギを載せたうどんが「鴨ナンバ」と呼ばれたのが、東に伝わって蕎麦にかわり、「鴨南蛮」になったというのですが、他にも数種類の説があるようです。

 ところで学生時代に京都市北部に住んでいた私は、「鴨」という字を見れば、めん類よりもむしろ鴨川を思い出します。京都市は百五十万人に近い人口を擁する大都市なのに、市内中心部でも川底が見えるほどきれいな鴨川は、両岸に咲き誇る春の桜から冬の雪まで、市民や旅行者の格好の憩いの場となっています。

 この川は北から流れてきて、下鴨神社あたりで東側を南流してくる高野川と合流します。そして京都の人々は合流するまでを賀茂川、合流してからを鴨川と書き分けています。さらに「加茂川」という表記も見かけますが、これは「賀茂川」の省略形だそうです。この川にはこのようにいくつかの書き方があるが、河川法によると、正式名称は鴨川とのことです。

 「鴨川」という河川は京都市のほか埼玉県・富山県・岡山県などにもあり、また千葉県には「シーワールド」で有名な鴨川市もありますが、いずれにせよ「鴨川」近くに暮らす人に子どもが生まれたら、子どもに「鴨」という漢字を使った名前をつけたいと考えても、それは決して不思議ではないでしょう。

 かつて子どもの名前には使えなかった「鴨」が、2004年9月に人名用漢字に追加されたので、「鴨」も今では子どもの名前に使えるようになっています。

 ちょうどその会議があったころ、わが教え子の一人がまもなく父親になる予定になっていて、出町柳の「三角州」近くに住んでいた彼は、子どもの名に「鴨」が使えるようになったことを非常によろこんでいました。千葉県などにも、もしかしたらそんな人がおられたかもしれません。

 しかし「鴨」という漢字を名にもつ鴨太郎くんや鴨美さんが、そのままずっと京都や千葉に暮らすとは限りません。進学や就職で他の地域に暮らすようになれば、「鴨ネギ」云々とからかわれることもあるかもしれません。スーパーでネギを買っても、まちがっても背負ったりしないことですね。

《関連リンク》
漢字ペディアで「鴨」を調べよう
漢字ペディアで「腥」を調べよう

《著者紹介》
atsuji_muse.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像
阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。
●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
 

《記事写真・画像出典》

・鴨川の写真(二枚) 著者撮影
・ジカダンパン 審議会配付資料より
・戸籍の例  名古屋市HP http://www.city.nagoya.jp/meito/page/0000064593.html

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