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四字熟語根掘り葉掘り36:「傍若無人」と芸術家肌の暗殺者

2019.05.13

四字熟語根掘り葉掘り36:「傍若無人」と芸術家肌の暗殺者

 紀元前227年のこと。中国統一まで目前に迫った秦(しん)という国の王が、刺客に襲われるという事件が起こりました。場所は、こともあろうに秦の王宮。大胆なある剣客が、使者のふりをして王に謁見し、隙を見て襲いかかったのでした。

 この暗殺事件は、すんでのところで失敗に終わり、やがて秦は中国統一を果たします。しかし、その政治が人々の支持を得られなかったこともあり、秦王を襲撃した刺客は、後々まで、その豪胆さを称えられることとなりました。

 彼の名は、荊軻(けいか)。この男、剣の腕が立ち、肝っ玉が太かっただけではありません。音楽好きでもありました。歴史書『史記』には、友人の音楽家と街中で酒を飲み、興が乗ると相手の伴奏で歌をうたい、「旁(かたわ)らに人無きが若(ごと)し」であった、と記録されています。

 「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)」という四字熟語は、ここから生まれた表現。〈そばにだれもいないかのように振る舞う〉という意味ですが、現在では、〈まわりの迷惑を顧みない〉というマイナスのイメージがあります。

 でも、荊軻は、暴虐な王を追い詰めた英雄。そんなマイナス・イメージは似合いません。『史記』でも、この直後、「彼の人となりは思慮深く、読書を好んだ」とプラス評価の文章が続いています。ここでの「旁らに人無きが若し」は、音楽に没頭する芸術家肌の気質を表しているように思われます。

 『史記』がまとめられたのは紀元前1世紀のことですが、5世紀に書かれた当時の貴族の逸話集、『世説新語(せせつしんご)』には、「傍らに人無きが若し」という表現が、5回も使われています。

 それらを見てみると、まず、脇目もふらず音楽を演奏している例が2つ。ひな鳥を捕まえるのに夢中になっている例が1つ。この3つは、荊軻の例を受け継いで、極度に精神を集中させているという、プラスのニュアンスで使われていると考えていいでしょう。

 もう1つ、賭博にのめり込んでいる例がありますが、これも、必ずしもまわりに迷惑をかけているわけではない模様。最後の1つは、他人の家に勝手に上がり込み、その庭にダメ出しをして回ったある男の態度に対する描写。ただ、これも奇行で有名な王献之(おうけんし)という書家のエピソードなので、まったくのマイナス評価というわけではないかもしれません。

 つまり、「傍若無人」は、もともとは〈気持ちを集中させている〉ところに重点がある四字熟語だった、という次第。現在ではすっかりイメージが悪くなってしまったのは、ちょっとかわいそうな気がします。

<参考リンク>
漢字ペディアで「傍若無人」を調べよう

<著者紹介>
円満字二郎(えんまんじ じろう)
フリーライター兼編集者。
1967年兵庫県西宮市生まれ。大学卒業後、出版社で約17年間、国語教科書や漢和辞典などの編集担当者として働く。
著書に、『漢字の使い分けときあかし辞典』(研究社)、『漢和辞典的に申しますと。』(文春文庫)、『知るほどに深くなる漢字のツボ』(青春出版社)、『雨かんむり漢字読本』(草思社)など。
また、東京の学習院さくらアカデミー、名古屋の栄中日文化センターにて、社会人向けの漢字や四字熟語の講座を開催中。
ただ今、最新刊『四字熟語ときあかし辞典』(研究社)に加え、編著の『小学館 故事成語を知る辞典』が好評発売中!


●ホームページ:http://bon-emma.my.coocan.jp/

〈記事画像〉秦王を暗殺しようとする荊軻(漢代画像石)

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