四字熟語

四字熟語根掘り葉掘り99:天翔る魔女と「先憂後楽」

四字熟語根掘り葉掘り99:天翔る魔女と「先憂後楽」

著者:円満字二郎(フリーライター兼編集者)

 先日、イギリスのある刑事ドラマを見ていたら、タッタカ、ターンターンという威勢のいい「ワルキューレの騎行」の音楽が流れて来ました。これはヘリコプターでも飛んでくるのかな、と思っていると、画面に登場したのはドローン。技術の進歩はこんなところにも反映されるんだ、と感じた次第でした。

 「ワルキューレの騎行」は、ドイツの作曲家、ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の中の一曲。魔女たちが空を飛び、ある山に集まってくる場面で流れます。これが、フランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』でヘリコプターによる爆撃シーンに使われたため、テレビなどではヘリコプターが飛ぶ場面で、よくBGMとして流れるのです。

 ワーグナーの楽劇は間違いなく偉大な作品ですが、世間ではオペラよりも映画の方が身近であることも確かです。そのため、現在ではこの音楽は、『地獄の黙示録』のイメージの方が強いのではないでしょうか。

 同じようなことは、四字熟語の世界でも起こります。たとえば、「先憂後楽(せんゆうこうらく)」とは、紀元前1世紀ごろにまとめられた儒教の古典、『大戴礼記(だたいらいき)』の「先んじて事を憂うる者は、後れて事を楽しむ」という一節から生まれた表現。文字通りには、〈心配ごとには先に取り組み、楽しみは後回しにする〉ことを表します。

 それから1000年以上が過ぎた、11世紀、北宋王朝の時代。范仲淹(はんちゅうえん)という政治家は、「岳陽楼(がくようろう)の記」という文章の中で、『大戴礼記』の一節を踏まえて、次のように述べています。

 「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」。これは、范仲淹が理想とする政治家の生き方を述べたことば。〈世の中の人が気づく前に社会の問題に取り組み、世の中の人が幸せになってから個人としての楽しみを感じる〉ことを表しています。

 「岳陽楼の記」は、数々の名文集はおろか、時には高校の漢文の教科書に収録されるほど有名な文章。そこで、現在では、「先憂後楽」の由来としてこの文章だけを挙げている辞典も少なくありません。

 ことばの厳密な理解ということを考えると、「先憂後楽」を味わうには、きちんと『大戴礼記』までさかのぼって欲しいところ。とはいえ、「岳陽楼の記」がなかったらこの四字熟語がここまで有名になることもなかったことでしょう。

 私もそうでしたが、『地獄の黙示録』を知ったあとで『ワルキューレ』へと進む人も少なくないはず。引用されたものからその世界に入るというのも、伝統文化の享受のしかたの1つなのでしょう。

≪参考リンク≫

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≪著者紹介≫

円満字二郎(えんまんじ・じろう)
フリーライター兼編集者。 1967年兵庫県西宮市生まれ。大学卒業後、出版社で約17年間、国語教科書や漢和辞典などの編集担当者として働く。 著書に、『漢字の使い分けときあかし辞典』(研究社)、『漢和辞典的に申しますと。』(文春文庫)、『知るほどに深くなる漢字のツボ』(青春出版社)、『雨かんむり漢字読本』(草思社)、『漢字の植物苑 花の名前をたずねてみれば』(岩波書店)など。最新刊『難読漢字の奥義書』(草思社)が発売中
●ホームページ:http://bon-emma.my.coocan.jp/

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イラストACより、tomo2021さんのイラストを利用

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