四字熟語根掘り葉掘り89:「桃傷李仆」に思う辞書作りの恐ろしさ
著者:円満字二郎(フリーライター兼編集者)
「桃傷李仆(とうしょうりふ)」とは、大きな四字熟語辞典や、漢和辞典の大親分『大漢和辞典』(大修館書店)にしか載っていない、珍しい四字熟語。それらの辞書では、〈兄弟が反目し合うことのたとえ〉というふうに説明されています。
出典として挙げられているのは、12世紀、南宋王朝の時代に作られた『海録砕事(かいろくさいじ)』という書物。しかし、この本には実は元ネタがあって、さかのぼっていくと8世紀、唐王朝の時代に書かれた『楽府(がふ)解題』という書物に行き当たります。
「楽府」とは、昔の中国で政府が民間から収集した、民謡のようなもの。その1つ、いがみ合っている兄弟を批判した「雞鳴(けいめい)」という歌の結びの部分は、拙訳でご紹介すると次のようなものです。
桃が井戸のそばに生え
その近くに李(すもも)が生えた
虫がやって来て桃の根っこをかじったけれど
桃の代わりに倒れたのは李の木だった
木だって自己犠牲の精神を知っている
なのに兄弟がそれを忘れているなんて……
『楽府解題』では、この部分に「桃傷つきて李仆(たお)る、兄弟の当(まさ)に相(あい)表裏を為(な)すべきを喩(たと)うるなり」という解説を付けています。「桃傷李仆」とは、ここに由来する表現なのです。
「相表裏を為す」とは、〈一体となって助け合う〉こと。つまり、この解説文に従って解釈すれば、「桃傷李仆」とは〈兄弟が助け合うべきだということのたとえ〉。日本の辞書とは正反対の説明ですよね。どうしてこんなことになったのでしょうか?
残念ながら、私は「桃傷李仆」の日本語での生きた使用例を見たことがありません。ですから、日本では楽府「雞鳴」の内容を汲んで中国とは違う意味で使っている、という可能性を否定はできません。しかし、『大漢和辞典』がうっかり間違えてしまい、それを各種の四字熟語辞典が引き継いでいる、と考える方が、よほどありそうなことではないでしょうか?
インターネットで「桃傷李仆」を検索すると、多くの「辞書サイト」がヒットします。そのすべてが〈兄弟が反目し合うことのたとえ〉だと説明していて、中には、親切に例文まで作って示してくれているものさえあります。もしその解釈が誤りだったとしても、これだけ広まってしまっては、もうそれを正すすべはないでしょう。
辞書作りに携わる者として言わせていただければ、間違いのない辞書などありえません。新しく辞書を作る時に既存の辞書を参照するのは重要ですが、その際には、先人に対する敬意と共に、批判の眼を忘れてはいけないのです。
≪参考リンク≫
漢字ペディアで「桃李」を調べよう
漢字ペディアで「仆」を調べよう
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≪著者紹介≫
円満字二郎(えんまんじ・じろう)
フリーライター兼編集者。 1967年兵庫県西宮市生まれ。大学卒業後、出版社で約17年間、国語教科書や漢和辞典などの編集担当者として働く。 著書に、『漢字の使い分けときあかし辞典』(研究社)、『漢和辞典的に申しますと。』(文春文庫)、『知るほどに深くなる漢字のツボ』(青春出版社)、『雨かんむり漢字読本』(草思社)、『漢字の植物苑 花の名前をたずねてみれば』(岩波書店)など。最新刊『難読漢字の奥義書』(草思社)が発売中。
●ホームページ:http://bon-emma.my.coocan.jp/
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