「無洗米」を無理やり読み解いてみる【下】|やっぱり漢字が好き29

著者:戸内俊介(日本大学文理学部教授)
「無洗米」は字面からだけでは「洗う必要のないお米」という意味に解釈できず、「前もって洗っていないお米」と誤解されることも少なくない。前号では、「無洗米」を無理やりにでも「前もって洗っていないお米」以外の意味に解釈するため、中国古典の文法研究の成果の応用を試みた。まず春秋戦国時代の中国語に見える動詞「無」について取り上げつつ、それに関連して「~してはいけない」「~すべきではない」を表す否定副詞「毋」にも言及した。さらに秦漢時代の出土文献の中に、「毋」字が動詞「無」(「所有しない」「存在しない」)として用いられる例が見られることを、竹簡に書かれた前漢時代の『論語』の例を挙げて説明した。
秦から前漢にかけて、「毋」字が動詞「無」の意味で用いられたことが多くの出土文献から確認できる。これは秦以前にはほとんど見えない用法である。一方で一部の文献では動詞の「無」も引き続き用いられた。
さらに「毋」は本来の用法(「~してはいけない」「~すべきではない」)としても使われ続けた。つまりこの時代、「毋」は書き言葉において「無」の意味領域をも侵食したために、相当に広い範囲で用いられていたとともに、「無」字も引き続き動詞として用いられたため、「毋」と「無」が錯綜している状況にあった(さらに口頭言語、すなわちしゃべり言葉においても、本来異なる発音であった「毋」と「無」が同音になっていた可能性もある)。この状況は以下のように図示できる。
そうであるにもかかわらず『論語』や『礼記』『老子』といった、我々が現在目にすることのできる書籍(このような現代まで脈々と伝わってきた書籍を「伝世文献」と呼ぶ)には「無」が多く、「毋」が少ない。それはなぜか。
「毋」と「無」が錯綜している状況の中から、後漢以降になると、「無」という表記こそが正統だという人々が現れ、当時の多くの文献の中で「毋」と書かれていた箇所を「無」に書き換えてしまったらしい(宮島2022)。このとき、動詞(「所有しない」「存在しない」)として用いられていた「毋」が「無」に書き換えられたのみならず、「~してはいけない」「~すべきではない」を意味していた「毋」も「無」に書き換えられてしまった。前者の「毋」は古い段階ではもともと「無」と書かれていたものだったので、「無」への書き換えは古い表記へ戻す正当な修正であるが、後者の「毋」はもとより「毋」と表記されていたもので、これを「無」へ書き換えるのは根拠のない過剰な修正である。現在われわれが目にすることのできる伝世文献は多くがこの種の書き換えを経たものである。「毋」の用例が少ないのは、歴史の途中でまさにこのような書き換えがあったためである。「毋」と「無」の表記上の変遷は以下の通り。
結果として、伝世文献の中には「~してはいけない」「~すべきではない」という意味を表す「無」をしばしば目にすることができる。例えば、
(6)無求備於一人。(『論語』微子篇)
〔一人の人に完全であることを求めてはいけない。〕
中国河北省定州に位置する前漢の中山懐王劉脩の墓より出土した一群の竹簡の中には『論語』が含まれている(定州漢簡『論語』と呼ばれる)。懐王劉脩の没年の紀元前55年より前に書かれたものと推定されるが、この定州漢簡『論語』では、(6)の「無」を「毋」で表記する。この『論語』は「毋」が「無」に書き換えられる前の文献である。例えば、
(7)毋求備於一人。(定州漢簡『論語』微子篇)
〔一人の人に完全であることを求めてはいけない。〕
「無」の用例の中には、「~してはいけない」「~すべきではない」という意味を表すものがあるのは、この種の書き換えの結果である。多くの漢和辞典で「無」の意味として「制止や禁止を表す」といった説明を掲載するが、これは「毋」から「無」への書き換えによる「後付け」の意味であり、「無」固有の意味ではない。
「無」が「毋」の意味をも表すことができるとなると、「無洗米」は「洗ってはいけないお米」「洗うべきではないお米」という意味にも解釈できる。この場合、「無洗米」が表したい「洗う必要のないお米」という意味にやや近づく。だが等価ではない。
以上、中国の古典における「毋」と「無」の表記上の交替を足掛かりに、「無洗米」を無理やり解釈して「洗う必要のないお米」という意味に近づけようと試みたが、「洗ってはいけないお米」「洗うべきではないお米」という解釈までが限界で、どうひっくり返してみても、「洗う必要のないお米」という意味を導き出せない。かなりまじめに考察を試みたが、やはり無理があったようである。
2回にわたって「無洗米」について取り上げたが、一部、古代中国語の文法に関わる話題に触れた。文法というと、「無味乾燥でつまらない」「学生時代に苦労させられた、または今まさに苦労している」なんて声も聞こえそうである。漢字に関する記事で言及されることも少ない。しかし古い時代の漢字にきちんと向き合うには、その字形のみならず、発音、さらにその文法的振る舞いまでをも視野に入れることが重要である。
次回「やっぱり漢字が好き30」は10月18日(金)公開予定です。
≪参考資料≫
金谷治訳『論語』、岩波書店、1963年
戸内俊介「海昏侯墓出土木牘『論語』初探」、『中国出土資料研究』第24号、2020年
宮島和也「上古漢語否定詞“無”“毋”及其相関字的演変補説:以戦国秦漢出土文献為主」、林範彦、池田巧編『シナ=チベット系諸言語の文法現象5:否定の多様性』、2022年
大西克也「論“毋”“無”」、『古漢語研究』1989年第4期
河北省文物研究所定州漢墓竹簡整理小組『定州漢墓竹簡 論語』、文物出版社、1997年
≪参考リンク≫
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≪著者紹介≫
戸内俊介(とのうち・しゅんすけ)
日本大学文理学部教授。1980年北海道函館市生まれ。東京大学大学院博士課程修了、博士(文学)。専門は古代中国の文字と言語。著書に『先秦の機能後の史的発展』(単著、研文出版、2018年、第47回金田一京助博士記念賞受賞)、『入門 中国学の方法』(共著、勉誠出版、2022年、「文字学 街角の漢字の源流を辿って―「風月堂」の「風」はなぜ「凮」か―」を担当)、論文に「殷代漢語の時間介詞“于”の文法化プロセスに関する一考察」(『中国語学』254号、2007年、第9回日本中国語学会奨励賞受賞)、「「不」はなぜ「弗」と発音されるのか―上中古中国語の否定詞「不」「弗」の変遷―」(『漢字文化研究』第11号、2021年、第15回漢検漢字文化研究奨励賞佳作受賞)などがある。