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やっぱり漢字が好き19 輸=シュ?/ユ?、洗=セイ?/セン?——「百姓読み」あれこれ(下)——

2024.03.01

やっぱり漢字が好き19 輸=シュ?/ユ?、洗=セイ?/セン?——「百姓読み」あれこれ(下)——

著者:戸内俊介(日本大学文理学部教授)

 前号では、日本語における百姓読みについて紹介したが、実は中国にも形声文字の声符の発音の類推から、誤読を招いた漢字がある。たとえば、中国福建省のアモイ市にコロンス島と呼ばれる島がある。かつて列強の共同租界であったことから、中国文化と西洋文化が混ざり合った建築物が島内のあちこちに見られる。

 この島は漢字で「鼓浪嶼島」と書く。このうち「嶼」という字は規範的には、日本漢字音で「ショ」、現代中国語音で“xǔ”(シュィ)と読むべきものだが、中国語の共通語(普通話)では一般的に“yǔ”(ユィ)と発音する。これは「嶼」の声符「與」(常用漢字では「与」)が“yǔ”(ユィ)と発音することの類推によってもたらされた誤読である。「嶼」は現地以外では用いることがほとんどない文字であったため、北京を含めた多くの地域では、本来の発音を知らず、誤った発音が定着したと考えられる。これは百姓読みの一種と見なしてよい。なお、中国ではこのような現象を百姓読みとは呼んではおらず、李栄氏は「字形の影響による音変化法則」と称している。

 なお、「鼓浪嶼=コロンス」という日本語読みは、「鼓=コ、浪=ロン、嶼=ス」という対応関係である。「嶼」を声符「與」の音読みによって「ヨ」と読まずに、「ス」と読むのは、「嶼」の本来の字音に近い。これは日本語読みが、アモイ方言である閩南語びんなんごに由来するためである。現地の閩南語では、鼓浪嶼島が身近なものであったことから、声符を手掛かりに字音を類推する百姓読みが生じる余地がなかった。

 このほか「発酵」の「酵」という字は、規範的には“jiào”(ジアオ)と発音する。ところが、地域や世代によっては“xiào”(シアオ)と読むこともある。李栄氏は1965年の論文で、若い世代に“xiào”(シアオ)と読む人が増えていると述べているが、昨年の2023年の段階ではすでに状況が変わっているようで、ためしに筆者が周囲の人々に聞いて回ったところ、遼寧省出身の20代の女性は、自分は“jiào”(ジアオ)と読むが、両親は“xiào”(シアオ)と発音するとのことであった。福建省出身の10代の女性からも自分は“jiào”(ジアオ)と発音するとの回答を得ている。一方、台湾出身の私と同世代(40代)の女性の友人は“xiào”(シアオ)と読むという。

 “xiào”(シアオ)という発音は、「酵」の声符「孝」が“xiào”(シアオ)と読むことからの類推である。「発酵」という単語が北京一帯で書き言葉として用いられることが多く、「酵」という字が身近でなかったことから、誤った発音が定着した。これも百姓読みに類する現象と見なすことができる。

 なお、「嶼」の“yǔ”(ユィ)という字音は中国ですでに広く普及し、中国語の各種辞書に収録されているが、「酵」の“xiào”(シアオ)という字音は多くの辞書に正式に採録されていない。小学館の『中日辞典』(第3版)は「発酵」の説明の中で“xiào”(シアオ)の字音には触れているものの、「“酵”を俗にxiàoと読むのは誤り」と注記する。

 百姓読みのような例外的に生じた字音は、最初のうちは一部の地域のみで通用するもので、それが全国に広く普及し、さらに辞書に登録されるまでには、ふつう長い時間がかかる。「嶼」の“yǔ”(ユィ)という字音が多くの辞書で採用されているのは、この例外的字音が早くから生じ、広く普及したためであろう。一方、「酵」の“xiào”(シアオ)という字音は成立が遅かったのかもしれない。

 ある単語が文字表記に引っ張られて発音が変わる現象は漢字文化圏だけのものではない。実のところ英語圏にも見られる現象である。たとえば、oftenは現代の規範では[t]を発音しないが、一部に[t]を発音する人もいるようである。綴りに合わせて生まれた発音は「つづり字発音」(spelling pronunciation)と呼ばれる。

 なお、百姓読みの始まりは、すでに何度も述べているように、声符の類推によってもたらされた誤読である。近年日本では、「破綻」を「ハジョウ」と読み、「罹患」を「ラカン」と読む例が見られる。目下これらはまだ誤った読み方と見なされており、正しくは「ハタン」、「リカン」である(誤読する人が多いせいか、それを防ぐために「破たん」、「り患」とひらがなで書く媒体もある)。

 しかし、もし「ハジョウ」、「ラカン」という読み方に違和感を覚える人々が減り、このような発音が定着すれば、その時また新たに「綻」=ジョウ、「罹」=ラという百姓読みが誕生するのである。

次回、やっぱり漢字が好き第20回は4月1日(月)に公開予定です。

≪参考資料≫

高島俊男『お言葉ですが…別巻5 漢字の「慣用音」って何だろう?』、連合出版、2012年
堀田隆一『はじめての英語史』、研究社、2016年
李栄「語音演変規律的例外」、『中国語文』1965年第2期

≪おすすめ記事≫

・やっぱり漢字が好き11 時には野球の話を① 変化球の呼び方(上)はこちら
・やっぱり漢字が好き18 輸=シュ?/ユ?、洗=セイ?/セン?——「百姓読み」あれこれ(上)—— はこちら

≪著者紹介≫

戸内俊介(とのうち・しゅんすけ)
日本大学文理学部教授。1980年北海道函館市生まれ。東京大学大学院博士課程修了、博士(文学)。専門は古代中国の文字と言語。著書に『先秦の機能後の史的発展』(単著、研文出版、2018年、第47回金田一京助博士記念賞受賞)、『入門 中国学の方法』(共著、勉誠出版、2022年、「文字学 街角の漢字の源流を辿って―「風月堂」の「風」はなぜ「凮」か―」を担当)、論文に「殷代漢語の時間介詞“于”の文法化プロセスに関する一考察」(『中国語学』254号、2007年、第9回日本中国語学会奨励賞受賞)、「「不」はなぜ「弗」と発音されるのか―上中古中国語の否定詞「不」「弗」の変遷―」(『漢字文化研究』第11号、2021年、第15回漢検漢字文化研究奨励賞佳作受賞)などがある。

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