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四字熟語根掘り葉掘り46:「百面億態」はどこから来たか?
2019.09.30
先日から『人間失格』を題材とした映画が公開されるなど、またぞろ、注目を集めている永遠の青春作家、太宰治。彼は、四字熟語を操る天才でもあります。四字熟語を多用しつつその合間に自意識を見え隠れさせる文章技法は、太宰に始まるといっても過言ではありません。
そんな太宰の初期の作品に、『虚構の春』(1937年)という短篇小説があります。ある年の12月から元日にかけて主人公に届いた手紙だけで構成されている、筋らしい筋もない難解な作品です。
その終わり近く、「S」という人物から届いた、断片的な文章が箇条書きに並んでいるだけのわけのわからない手紙の中に、「ぞろぞろぞろぞろ、思念の行列、千紫万紅百面億態」とあります。
「千紫万紅(せんしばんこう)」は、〈華やかで豊かな彩り〉を表す四字熟語。続く「百面億態(ひゃくめんおくたい)」は、おそらく〈数え切れないくらいさまざまに変化する表情や態度〉を表すのでしょうが、太宰に限らず、この一節以外には使用例が見あたりません。
「千紫万紅」を受けて、太宰が筆の勢いで生み出したのが「百面億態」なのでしょう。しかし、「千○万○」型の四字熟語がたくさんあるのに対して、「百○億○」型の四字熟語は、ほかには例がありません。太宰はいったいどこから、こんな独特な発想を得たのでしょうか?
そんな疑問を長い間、抱いていたところ、あるとき、中野美代子訳『西遊記』(岩波文庫、全10巻)を読んでいて、そこに一条の光を投げかけてくれる一節に出会いました。第65回(第7巻、1993年刊)の冒頭近く、ある険しい山のようすを歌った詩の中に、「千崖万壑(せんがいばんがく)/億曲百湾(おくきょくひゃくわん)」とあるのです。
「千崖万壑」とは、〈数え切れないくらいの崖や谷〉。一方、「億曲百湾」は、〈数え切れないくらい湾曲している〉こと。「百面億態」と順序こそ違いますが、「百」と「億」の結びつきです。そして、「千○万○」型の後に続くという点まで、同じなのです。
翻訳のこの部分は、『西遊記』の原文そのままです。とはいえ、太宰が『西遊記』を原文で読んでいたとは思えません。ただ、『虚構の春』を書いたころの太宰は、佐藤春夫に深く師事していました。佐藤春夫といえば、『田園の憂鬱』などで小説家として活躍する一方、多くの中国の小説を翻訳・翻案した中国文学通でもあるのです。
佐藤春夫が『西遊記』の該当部分を翻訳したという事実は見あたりませんが、『西遊記』を読んでいなかったとも思えません。中国の小説に出て来る表現が、何らかの形で、佐藤春夫を通じて太宰治の中へ流れ込んでいたというのは、あり得ないことではないように思われます。
<参考リンク>
漢字ペディアで「千紫万紅」を調べてみよう
青空文庫で「虚構の春」を読んでみよう
<おすすめ記事>
四字熟語根掘り葉掘り24:「冷汗三斗」の出自をたどる はこちら
四字熟語根掘り葉掘り33:「白河夜船」のウソと真実 はこちら
<著者紹介>
円満字二郎(えんまんじ じろう)
フリーライター兼編集者。 1967年兵庫県西宮市生まれ。大学卒業後、出版社で約17年間、国語教科書や漢和辞典などの編集担当者として働く。 著書に、『漢字の使い分けときあかし辞典』(研究社)、『漢和辞典的に申しますと。』(文春文庫)、『知るほどに深くなる漢字のツボ』(青春出版社)、『雨かんむり漢字読本』(草思社)など。 また、東京の学習院さくらアカデミー、名古屋の栄中日文化センターにて、社会人向けの漢字や四字熟語の講座を開催中。 ただ今、最新刊『四字熟語ときあかし辞典』(研究社)に加え、編著の『小学館 故事成語を知る辞典』が好評発売中!
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