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新聞漢字あれこれ47 私淑の「私」は、ひそかに

新聞漢字あれこれ47 私淑の「私」は、ひそかに

著者:小林肇(日本経済新聞社 用語幹事)

 故事成語の使い方で誤りやすいものに「私淑」があります多くの人がどうも「私」の字を「わたくし」の意味でとってしまっているようです。この「私淑」が新聞各社の用字用語集で注意喚起されるようになったのは2000年代に入ってからで、まだ新しい部類に入ります。

 私淑とは「私(ひそ)かに淑(よ)しとする」の意味で、出典は『孟子』。孔子より100 年余り後に生まれた孟子が「自分は孔子の弟子にはなれなかったが、その教えを人から聞いて手本とした」ということを述べたくだりに出てきます。国語辞典で私淑を引くと「直接教えを受けたわけではないが、著作などを通じて傾倒して師と仰ぐこと」(大辞林第四版)とあります。直接教えを受けたわけではないというのがポイントで、大辞林では「直接指導を受けたことのある人に対して用いるのは誤り」と補足説明しています。

 こうした誤りが多いと知ったのは、1990年代半ばのことでした。原田種成・元大東文化大学教授の著書私の漢文講義』には「相当に学識教養があると思われる人でも誤用することが多い」とありました。気になって記事データベースで調べたところ、私宅にまで出入りして教えを受けるような間柄や、直接会える人に対しても「私淑している」誤用が多く見られました。記者も間違えていますが、寄稿にもよく見られる傾向があり、原田氏の指摘どおり誤った使われ方はかなり広まっています。

 その後、社内の用字用語集の改訂作業に参加した際、「私淑」の項目を入れることを提案。日本経済新聞社では2001年版から誤りやすい慣用語句として「私淑」を載せるようになりました。当時、他の全国紙・通信社の用語集には私淑の項目はなく、日経が一番早く載せたものと思われます。現在は他社の用語集にも見られるようになりましたので、それだけ間違いやすい語なのだといえます。

 なぜ誤用が広がるのか。漢文に触れる機会が少なくなったこと、常用漢字表の「私」の読み方に「シ、わたし、わたくし」しかないため、「ひそかに」の意味があまり知られていないということが理由に挙げられます。私語も「本来は〝こっそり語る〟ことをいう」(漢字ときあかし辞典)ものですが、「わたくしごとを語る」と思っている人は少なくないでしょう。私淑の「私」が「わたくし」の意味にとられるのも仕方がないのかもしれません。

 もちろん言葉は変化するものですし、意味も広がっていきます。正用と誤用の境界は時代によって変わることはいくらでもあります。ただ、何でも変化だから良いとするわけにもいきません。原田氏が「故事成語には、古典に典拠があるものが多いから、正しく使わないで誤用をすると教養を疑われる」(私の漢文講義)と指摘するように、新聞が誤用とされるものを文字化してしまえば、寄稿の場合、書き手に恥をかかせてしまうことにもなりかねません。校閲記者の力も問われます。

 とはいえ、残念ですがすべての誤用を捕らえきれないのも事実。広がっているからこそ誤用表現として〝定着〟しているとも言えそうです。言葉との格闘は続きます。

≪参考資料≫

円満字二郎『漢字ときあかし辞典』研究社、2012年
円満字二郎『小学館 故事成語を知る辞典』小学館、2018年
佐藤喜代治『字義字訓辞典』角川書店、1985年
長澤規矩也・原田種成・戸川芳郎編『新明解漢和辞典 第四版』三省堂、1990年
原田種成『漢字小百科辞典』三省堂、1989年
原田種成『漢文のすゝめ』新潮選書、1992年
原田種成『私の漢文講義』大修館書店、1995年
松村明編『大辞林 第四版』三省堂、2019年

≪参考リンク≫

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≪著者紹介≫

小林肇(こばやし・はじめ)
日本経済新聞社 用語幹事
1966年東京都生まれ。金融機関に勤務後、1990年に校閲記者として日本経済新聞社に入社。編集局 記事審査部次長、人材教育事業局 研修・解説委員などを経て2019年から現職。日本新聞協会新聞用語懇談会委員。漢検漢字教育サポーター。漢字教育士。 著書などに『謎だらけの日本語』『日本語ふしぎ探検』(共著、日経プレミアシリーズ)、『文章と文体』(共著、朝倉書店)、『日本語大事典』(項目執筆、朝倉書店)、『大辞林 第四版』(編集協力、三省堂)、『加山雄三全仕事』(共著、ぴあ)、『函館オーシャンを追って』(長門出版社)がある。2019年9月から三省堂辞書ウェブサイトで『ニュースを読む 新四字熟語辞典』を連載。

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りむ/PIXTA(ピクスタ)

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