新聞漢字あれこれ170 「杁」愛知県の方言漢字

著者:小林肇(日本経済新聞社 用語幹事)
5月9~11日、日本近代語研究会と日本語学会に参加するため名古屋大学に行ってきました。せっかくの機会だったので、愛知県の方言漢字である「杁」を撮影してきました。
早稲田大学の笹原宏之教授編著『方言漢字事典』によると、「杁」は「いり」と読む愛知県、岐阜県などの地名にある地域文字。姓は名古屋近辺を中心に各地で見られるのだそうです。用水路の水門・取水口、ため池を意味する「いり」のことで、江戸時代初期に尾張国(現在の愛知県西部)で「杁」という字がつくられ、藩内とその周辺で使用されたといいます。他の地域では土偏の「圦」が使われていましたが、水門が木製だったことから木偏の「杁」が独自に定着したようです。
まず訪れたのが名古屋市昭和区隼人町にある市営地下鉄鶴舞線の「いりなか」駅。駅名は町名変更前の広路町字杁中にちなむもので、地下鉄開業時(1977年)は漢字制限の強かった当用漢字の時代だったこともあり、平仮名になったとされます。ただし、駅前にあった市バスの停留所名は「杁中」で、現在も漢字表記が残されていました。
少し足を延ばし次に向かったのが、長久手市の「杁ケ池」。愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)の「杁ケ池公園」駅を下車して「杁ケ池公園」へ行きました。「杁ケ池」は元々が農業用のため池で、周辺が区画整理されたのに伴い公園として整備されたところです。池を1周するジョギングコースは720メートルで、公園の周辺には「杁」の字を使った名称のアパートやクリニックがありました。県内にはほかに江南市、犬山市、清須市などにも地名に「杁」の字が残されていますが、すべては回りきれませんので、この2カ所で「杁」をカメラに収めてきました。
新聞では「杁」の字はどのように使われているのか。記事データベース「日経テレコン」を用い、日本経済新聞の朝夕刊での使用記事件数を見たところ、2024年までで計45件あり、うち人名が34件で地名(駅名や地名を由来とした店舗名などを含む)が11件という結果でした。人名では「野杁」姓が29人、「杁本」姓が4人、「二杁」姓が1人。地名はすべて愛知県のもの。他紙の検索をしたところ、東海地方(愛知、岐阜、三重)で発行する中日新聞での「杁」の使用件数が圧倒的多数となっていました。「杁」はやはり愛知県の方言漢字といえるものなのでしょう。
次回、新聞漢字あれこれ第171回は6月25日(水)に公開予定です。
≪参考資料≫
笹原宏之『国字の位相と展開』三省堂、2007年
笹原宏之『方言漢字』角川選書、2013年
笹原宏之編『なぞり書きで脳を活性化 知る人ぞ知る方言漢字128』大修館書店、2024年
丹羽基二『人名・地名の漢字学』大修館書店、1994年
『国字の字典 新装版』東京堂出版、2017年
『新潮日本語漢字辞典』新潮社、2007年
『増補改訂JIS漢字字典』日本規格協会、2002年
『難読稀姓辞典〈第三版〉』日本加除出版、2004年
『難姓・難地名事典』新人物往来社、1994年
『ビジュアル「国字」字典』世界文化社、2017年
『方言漢字事典』研究社、2023年
≪参考リンク≫
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≪著者紹介≫
小林肇(こばやし・はじめ)
日本経済新聞社 用語幹事
1966年東京都生まれ。1990年、校閲記者として日本経済新聞社に入社。2019年から現職。日本新聞協会新聞用語懇談会委員。漢検漢字教育サポーター。漢字教育士。 専修大学協力講座講師。
著書に『マスコミ用語担当者がつくった 使える! 用字用語辞典』(共著、三省堂)、『方言漢字事典』(項目執筆、研究社)、『謎だらけの日本語』『日本語ふしぎ探検』(共著、日経プレミアシリーズ)、『文章と文体』(共著、朝倉書店)、『日本語大事典』(項目執筆、朝倉書店)、『大辞林第四版』(編集協力、三省堂)などがある。2019年9月から三省堂辞書ウェブサイトで『ニュースを読む 新四字熟語辞典』を連載。