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「檸檬」の表記はいつ? どこから?【漢検1級で出題された熟語を解説! 2】

「檸檬」の表記はいつ? どこから?【漢検1級で出題された熟語を解説! 2】

著者:田中郁也(漢字文化研究所主任研究員)

 

 漢検最難関の1級では、約6,000字の対象漢字の中からさまざまな熟語が出題されます。中には、漢字そのものは知っていても、複雑な読み方やその言葉の意味を知らないと答えられない問題も。
 このコラムでは、実際に過去に漢検1級で出題された熟語を漢字文化研究所の専門家が、その背景なども詳しく解説します!

 今回は、過去に熟字訓・当て字の設問にて出題されたことがある 「檸檬」 の読みについてご紹介しましょう。



1)「檸」の音読み

 漢和辞典の「檸」の項目には、慣用音ネイ、漢音ドウと書かれています。前回のこのコラムで解説した漢音・呉音・唐音という枠組みに入らない音読みの事を、慣用音と呼びます。「獰猛ドウモウ」の「ドウ」と同じようにドウと読むのが「檸」の本来の読み方で、ネイという慣用音は、おそらくつくりの「ネイ」から類推したものでしょう。「ウン」の「」(本来はシュ)と同じ方式で作られた読みかたと思われます。

2)レモンは中国・宋代の地理書に登場する

 『世界大百科事典』(平凡社、2007年)で「レモン」の項目を調べると、インド原産で、中国には宋代に伝わったものの普及せず、日本には1873年に伝わったと書かれています。
 まずはこの情報をもとにして、「檸檬」という漢字語が中国の古典文献に出現するかどうかを調べてみました。しかし、中国でも、日本でも古典文献中に「檸檬」という熟語は見当たりません。その代わりに、「黎朦子」という植物については南海地方の習俗を記述する地理書に見られ、そこでは「黎朦子、大梅の如くして、復た小橘に似たり。味は極めて酸なり」などと説明されています*1。しかしこの「黎朦子」も、地理書やそれを引用した文献以外にはほとんど登場しません。『世界大百科事典』の記述通り、宋代には中国に伝わっていたと考えられるものの、ほとんど普及しなかったことが確認されます。

3)蘇軾とレモン

 ところが、レモンが登場するその稀有な文献のひとつに、宋代の著名な文人、蘇軾(蘇東坡)の随筆『東坡志林』があるのです。ご紹介しましょう。
 

 私には黎錞という古い友人がいた。『春秋』を深く研究して一家を成し、かの欧陽文忠公(欧陽脩)も高く評価した人物であるが、その人となりは朴訥で機転が利かなかった。そこで劉貢父(劉攽、友人の一人)は冗談で彼を「黎檬子」と呼び(「檬」の発音が「朦朧」の「朦」と同じなので“ぼんやりした黎君”という語感)、その人となりを表したのだが、我々は黎檬子という果物があることを知らなかったのだ。ある日、彼らと連れだって馬で出かけた時に、市場でこの黎檬子の呼び込み販売をしているものがいて、馬から落ちそうになるほど大笑いしたものだ。いま私は海南に流され、家の周りにはこの果実が枝いっぱいに実っている。黎錞、劉攽の二人はもうこの世におらず、私一人が座って友人たちと過ごした日々を懐かしんでいる。もうあの日々を過ごすことはできないのだ。…(後略)。


 拙い訳なので、ぜひ原文や先賢の名訳で味わっていただきたいのですが*2、流刑先の海南島でひとり友を偲ぶ蘇軾の心持が、レモンを媒介として鮮やかに描かれています。それはさておき、ここでは、蘇軾が活躍した11世紀後半には市場でレモン(黎檬子)が売られており、海南島ではそこかしこにレモンが実っていたという事実を提示するにとどめましょう。

4)「檸檬」は英語Lemonを中国で音訳したもの

 宋代に「黎朦子(黎檬子)」と書かれたレモンは、現代中国語(普通話)では日本と同じく「檸檬(ピンイン:níngméng)」と書きます。先ほど見た通り、中国古典文献には檸檬という漢字語は見えず、また黎朦子(黎檬子)もほぼ登場しません。つまり「檸檬」は、近代になって西洋から渡来したレモンに、漢字をあてはめてできたものだと推測できます。この点について著名な国語学者達の著作を確かめてみると、やはり英語のlemonを音訳したものだと考えているようです*3。
 それでは、レモンを「檸檬」と音訳したのは日中のいずれの国でのことなのでしょうか。広く知られている通り、多くの西洋由来の概念や事物は、幕末・明治維新の時期に日本で漢字語に翻訳されていますが、調べてみると日本より中国での登場例が早いようです。
 「檸檬」という語の日本最古の登場例は、『日本国語大辞典(第二版)』によれば1873年に作られた『薬品名彙』です。一方の中国での最古の登場例はイギリス人宣教師のR.モリソンがマカオで出版した『中国語字典』(1815-23)*4で、そこには「檸檬 ning mung , limes. 檸檬水 ning mung shwuy , lemon juice」と書かれています。このモリソンの字典に登場するのが最古の登場例と言えそうです。
 モリソンの字典は、その後の西洋人宣教師たちの作った英華字典に引き継がれました。その中でも集大成と言われる、ドイツ人宣教師W.ロプシャイト『英華字典』(1866-69)*5は日本に早くもたらされ、近代訳語の創出に多大な影響を与えたものとして知られています。「檸檬」という漢字語もおそらくロプシャイトの字典を経由して日本に入ってきたものと推測されますが、いずれにせよ、中国製であることは間違いがなさそうです。

5)英語Lemonのleに「檸」をあてた理由

 しかしこのような用例調査をするまでもなく、音訳に使われた漢字「檸」から中国製であることが推測できるのです。「檸」は英語lemonleを音訳するのに使われていますが、この字は現代中国の共通語(普通話)で「檸」(ピンインníng)と読みます。つまり、英語の子音/l//n/で音訳しているのです*6。日本語でラ行とナ行がはっきり分かれているように、現代中国の共通語(普通話)でも子音の/l//n/とをはっきりと区別しますが、中国南方の福建方言(閩語)や湖南方言(湘語)などではそうではなく、この二つの子音を往々にして区別しません。つまり、そのような中国語の方言音をもとに、英語lemonleが「檸」と音訳されたと考えられるのです。
 先ほど見た「檸檬」の最古の用例を載せる『中国語字典』の作者モリソンは、広東方言(粤語)で中国語を学んだ人物として知られています。しかし、彼が広東方言をもとに英語のlemonを檸檬と音訳したわけではないようです。モリソンが作った広東方言辞典『広東省土話字彙』(1828年)では子音の/l//n/とは厳格に書き分けられていますし*7、それはほぼ同時期に別の西洋人宣教師が作った方言辞典*8でも同じです。少なくとも当時の広東方言を元にして、英語のlemonが檸檬と漢字語に訳された可能性は少なそうです。
 それでは誰がはじめに訳したのかというと、おそらく、福建方言(閩語)など*9を母語とする(或いは学んだ)人だったと思われます。福建方言ではかなり早くから子音の/l//n/とが一緒になっていたことが知られています*10。先ほどと同じように西洋人宣教師の著作で確認してみると、イギリス人宣教師のW.H.メドハーストが作った『福建語字典』*11(1841年)でも、共通語の子音/n/で発音されるべき「寧」や「捏」などの字が、確かに子音/l/で読まれています(口語・文語同じ)。



 以上、「檸檬」という語についてざっくりと調べてきたところをまとめてみましょう。
 1,福建方言など、早くから/l/と/n/との違いがなかった方言をもとにして、19世紀初め以前に、英語のlemonは「檸檬」という漢字語に音訳された。
 2,音訳語「檸檬」はモリソンの字典に取り込まれ、後の英華・華英字典がこの音訳語を継承した。
 3,(おそらく)そのうちのロプシャイトの『英華字典』を通じて日本に流入し定着した。


 檸檬は、梶井基次郎の小説の題名になっていることもあって、比較的なじみのある漢字表記ではないかと思います。文学方面に疎い私には、レモンが爆発する話だったかなという漠然とした記憶しかありませんが、この語を調べてみたついでに読んでみようかと思っています。




次回は7月12日(土)に公開予定です。

≪注釈≫

1 南宋・周去非『嶺外代答』や南宋・范成大『桂海虞衡志』。
2 松枝茂夫『記録文学集』(中国古典文学大系56、平凡社、1969年)など。
3 新村出「外来語の話」(『新村出全集』第三巻、1971年所収。初出1949年)、山田俊雄「檸檬」(『詞苑間歩』三省堂、1999年所収。初出1995年)、吉田金彦『語源辞典 植物編』(東京堂出版、2001年)、杉本つとむ『江戸時代 翻訳語の世界 近代化を推進した訳語を検証する』(八坂書房、2015年)など。
4 Morrison, Robert.“A Dictionary of the Chinese Language, in Three Parts”. Macao: Printed at the Honorable East India Company's Press,1815-23.
5 Lobscheid, Wilhelm.“An English and Chinese Dictionary”.Hong Kong: Daily Press Office,1866-69.
6 / /は音素表記。
7 Morrison, Robert. “Vocabulary of the Canton Dialect”. Macao: Printed at the Honorable East India Company's Press, 1828.
8 Bridgman, Elijah Coleman. “A Chinese Chrestomathy in the Canton Dialect”. Macao: S. W. Williams, 1841.でも「檸」は子音/n/で記されている(p.443)。
9 福建方言がもとになったと断定することは難しい。例えば、19世紀初めの江淮官話では子音/l/と/n/が合流して/l/になっていたことが知られており(清・許桂林『説音』1807年。耿振生『明清等韻学通論』語文出版社、1991年、p.193による)、また、19世紀半ばの南京でも/n/と/l/とが混交していたという記述がある。(Edkins, Joseph. “A Grammar of the Chinese Colloquial Language, Commonly Called the Mandarin Dialect”. Shanghai: Presbyterian Mission Press, 1857.(中国語名『官話口語語法』)第一部の音韻論(p.8)。
10 福建地方で作られた韻書などで確認できる(実例は耿振生『明清等韻学通論』語文出版社、1991年、pp.208-213を参照)。
11 Medhurst, Walter Henry. “A Dictionary of the Hok-këèn Dialect of the Chinese Language”. Macao: Printed at the Honorable East India Company's Press, 1832.

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≪参考リンク≫

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