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漢字コラム49「筆」 聿、不律、弗…お国が違えば字も違う

2021.04.20

漢字コラム49「筆」 聿、不律、弗…お国が違えば字も違う

著者:前田安正(未來交創株式会社代表取締役)

  まゝごとの飯もおさいも土筆かな

 高浜虚子の次女・星野立子の句です。春の土手や原っぱに顔を出すツクシは、おままごとに限らず、かつては食卓に並ぶ春の惣菜でもありました。いまではツクシが食用になることはあまり知られていないかもしれません。ツクシは漢字で「土筆」や「筆頭菜」などと書きます。土筆は、2字以上の熟字に日本語の訓を当てた熟字訓です。筆頭菜は漢語由来。現代中国語でも笔菜と書きます。いずれもツクシを筆に見立てたものです。

 「筆」は、竹軸に羊や馬、鹿などの毛を取り付けた筆記用具です。「竹」と「聿」で構成されています。「竹」はタケの枝を2本描いた象形。「聿」は「筆」の原字で、ふでを手に持った形を表しています。「竹」と「毛」を組み合わせた「笔」という異体字もあります。竹は常緑で成長が早く繁殖力も強いので、中国では縁起物の一つになっています。タケノコは食用になったり、紙のない時代には、竹を薄く切って竹簡として今の原稿用紙の役割をしたり実用面でも重宝されました。筆もその一つです。

 中国の字書「説文解字」の「筆」には「秦、これを筆という」と、わざわざ秦の表記だと記しています。また「聿」の項には、楚では「聿(イツ)」、呉では「不律」、燕では「弗(フツ)」と表記されたとあります。群雄割拠の時代、「ふで」を表す字も地方・国ごとに違いがあったことが見て取れます。

 漢字を覚えるための小学書『千字文』のなかに「恬筆倫紙」(蒙恬〈もうてん〉の筆、蔡倫〈さいりん〉の紙)とあるように、筆は秦代の蒙恬という将軍が創始したという俗説があります。この俗説を支える記述が、西普時代の崔豹(さいひょう)が古代の事物や制度を記した『古今注(ここんちゅう)』の「問答釋義第八」に見えます。「蒙恬始めて造るは、即ち秦筆のみ」とあり、それは鹿毛の周りに羊毛を巻いたもので、枯れ木を軸としたと記されています。

 また、唐代の文学者で思想家の韓愈(かんゆ)が書いた『毛穎傳(もうえいでん)』には、筆を擬人化した主人公・毛穎が登場します。「穎」は穂先の意味で、毛穎は筆を指しているのです。

 蒙恬はあるとき占いで「天から人文を与えられる」という吉兆を得ます。「毛の長い秀でた者を用いて文書に役立てれば、天下は文字を同じくして統一されるだろう」と言うのです。占いの通り、蒙恬は毛穎を捕らえ連れて帰ります。毛穎の描写はウサギを想起させます。ウサギの毛は筆に使われていました。毛穎は始皇帝から管城の地を与えられ、管城子を号したのです。毛穎は寵愛(ちょうあい)を受け、以後(記録をつける)仕事を受け持つことになったとあります。ここから管城子は筆の異名となったのです。

 1954年に、中国・湖南省長沙市左家公山にある戦国時代の楚の墓から、竹簡などとともにウサギの毛で作られた筆が見つかりました。これが現存する中国最古の筆で、「長沙筆」と呼ばれています。また、甲骨文の下書きに筆が使われたのではないかと思われる跡や、甲骨文と同時に発掘された白色土器には毛筆で描かれたと文様も見つかっています。そのため、秦の蒙恬が筆を創始したという俗説は覆されていますが、筆を改良し、より実用に近づけることに寄与したのではないかと考えられています。

 日本に筆が伝わったのは仏教伝来と同じ500年代であるとか、3〜7世紀ころなどと言われています。「ふで」という日本語の訓は「文+手」の「ふみて」からきており、文を書くものという意です。また、区画を表すときに「一筆(いっぴつ)」などのように使うのは、日本独自の用法です。

≪参考資料≫

「季題別句集 行路」(花乱社 星野立子・星野椿・星野高士著)
「千字文」(岩波文庫 小川環樹・木田章義注解)
「新釈漢文大系70 唐宋八大家文読本 一」(明治書院 星川清孝著)
「古今注」(国立国会図書館デジタルコレクションから)
「漢字の起原」(角川書店 加藤常賢著)
「漢字語源辞典」(學燈社 藤堂明保著)
「漢字語源語義辞典」(東京堂出版 加納喜光)
「漢字字源辞典」(角川学芸出版 山田勝美・進藤英幸著)
「言海」(ちくま学芸文庫 大槻文彦)
「学研 新漢和大字典」(学習研究社 普及版)
「全訳 漢辞海」(三省堂 第三版)
「漢字ときあかし辞典」(研究社、円満字二郎著)
「日本国語大辞典」(小学館)、「字通」(平凡社 白川静著)は、ジャパンナレッジ(インターネット辞書・事典検索サイト)を通して参照
前田安正オフィシャルサイト「ことばデザインワークス・マジ文ラボ」https://kotoba-design.jp/

≪参考リンク≫

漢字ペディアで「筆」を調べよう

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≪著者紹介≫

前田安正(まえだ・やすまさ)
未來交創株式会社代表取締役/ビジョンクリエイター/文筆家
玉川大学文学部非常勤講師
朝日新聞元校閲センター長
早稲田大学卒業、事業構想大学院大学修了
82年朝日新聞社入社、名古屋編集センター長補佐、大阪校閲センターマネジャー、用語幹事、校閲センター長、編集担当補佐兼経営企画担当補佐などを歴任。「漢字んな話」「漢話字典」「ことばのたまゆら」「あのとき」など、十数年にわたり朝日新聞に漢字や日本語に関するコラム・エッセイを毎週連載。
2019年文章コンサルティングファーム未來交創株式会社を立ち上げ、わかりやすい文章の書き方、コミュニケーションの楽しさを伝える仕事をしている。「文章の書き方・直し方」など、企業・自治体の広報文の研修に多数出講。テレビ・ラジオ・雑誌・ネットなどのメディアにも数多く登場している。
《著書》
9.1万部を超えた『マジ文章書けないんだけど』(2017年・大和書房/19年・台湾で翻訳出版)を始め、
2010年『漢字んな話』、12年『漢字んな話2』(三省堂)
2013年『きっちり!恥ずかしくない!文章が書ける』(すばる舎/19年・韓国で翻訳出版)
2014年『間違えやすい日本語』(すばる舎)
2015年『しっかり!まとまった!文章を書く』(すばる舎)
2017年『3行しか書けない人のための文章教室』(朝日新聞出版)
2018年『クレオとパトラのなんでナンデさくぶん』(大和書房/20年・中国で翻訳出版予定)
2019年『ヤバいほど日本語知らないんだけど』(朝日新聞出版)
2020年『ほめ本』(ぱる出版)、『きっちり!恥ずかしくない!文章が書ける』(朝日文庫)、『使える!用字用語辞典』(共著・三省堂)
などがある。

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