新聞漢字あれこれ67 懐かしい幻の漢字字体

著者:小林肇(日本経済新聞社 用語幹事)
この春、社内の組織改編にともなう職場の引っ越しがありました。古い資料などを箱詰めしていたところ、新聞フォントに関する懐かしい資料が出てきました。
日本経済新聞では表外字について1970年から部分字形を当用漢字(当時)のように簡略化した字体を使っていました。現在「拡張新字体」と呼ばれる字体で、かつては全国紙や地方紙などで使用する社がいくつもありました。文字を手書きすることが多かった時代は、画数が少ない字は歓迎すべきものだったのかもしれません。ただ、使用頻度が低くあまり目にする機会のない字を簡略化し、漢和辞典にも載っていない字を作ることが、読者のためになったのかというとはなはだ疑問です。社内でも「何の字だか分からない」ということがありました。
入社以来、拡張新字体に疑問を持っていたところ、新聞製作のシステム変更に伴い字体を見直す機会がありました。1995年7月、社内に字体委員会が組織され、私も最若手でその一員となったのです。約10カ月、24回の審議で2000字ほどを検討。この頃は人生で一番多く漢和辞典を引いたと思います。私はなるべく辞典に載っているような字体に戻すように進言したものの、なかなか理解が得られず、最終的には折衷型の字体表が出来上がりました。
その字体表にあった懐かしい字が「蹊」に関する字。拡張新字体では①のようになり、現在使われている③の「蹊」とは画数が異なります。そこで③と画数を変えず手書きに近い②のような折衷型の字を作りました。1996年4月に約7000字から成る「日経漢字字体表(99年版)」が完成。その後、フォントが作製され1999年6月から紙面で使われるようになりました。
ちょうどその頃は、「森鷗外の『鷗』が『鴎』としか表示できない」といった簡略化した字に疑問や批判の声が上がっているときで、国語審議会(当時)が表外字の字体について審議中でもありました。国語審は2000年に「表外漢字字体表」を答申。明治以来の伝統的活字字形である「いわゆる康熙字典体」が印刷標準字体になると、2004年にJISの例示字形が変更・追加されるなど、拡張新字体から康熙字典体への変更の動きが加速。「日経漢字字体表」も再検討を余儀なくされました。2005年6月に約300字の字体を修正し、康熙字典体を基本に3部首(しんにゅう、しょくへん、しめすへん)を簡略化したフォントが現在も使われています。
わずか数年で変更となった「日経漢字字体表」。お蔵入りになった幻の字もあります。国語審と同時期に進めた字体委員会の審議は無駄だったのかと考えたこともありましたが、日本新聞協会が1998年から1999年にかけて行った加盟70社の字体調査に参画できたのも、字体委員会の経験があればこそ。私にとっては貴重な10カ月でした。ほかに得たものがあるとすれば、漢字を見ただけでJISの水準が分かるなどの特技?でしょうか。
字体委員会の審議から25年以上がたちました。最近は「逼迫」の字を見た読者から、しんにゅうが1点なのか2点なのか問い合わせを受けるようなことがあります。委員会メンバーで社内に残るのは私一人。「3部首許容」も見直すべきときなのかと考えるこのごろです。
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最も多く引いた漢和辞典は『現代漢語例解辞典』。その編集協力者に林史典・筑波大学教授(当時)の名前があります。林氏は後に常用漢字表改定時に文化審議会国語分科会会長を務められました。林氏には弊社の勉強会に講師で来ていただいたり、私が林氏の聖徳大学で講演をしたりと交流するご縁があったのですが、恥ずかしながら辞典にある名前に気づいたのはつい最近のこと。あんなに使い込んだのに……。
同じく縁といえば、字体委員会の審議のさなかの1995年9月14日に日本漢字能力検定協会を訪ねたことです。漢字検定で拡張新字体を書いた場合の採点基準などについて意見交換しました。後に連載で協会の仕事に関わるとは、あのときは思いもしませんでした。
≪参考資料≫
『漢字字体関係参考資料集 明朝体活字字形一覧(下)―1820年~1946年―』大蔵省印刷局、1999年
『現代漢語例解辞典』小学館、1992年
『国語審議会報告書21』大蔵省印刷局、1998年
『新聞活字用 標準漢字の研究』朝日新聞社、1946年
『増補改訂JIS漢字字典』日本規格協会、2002年
『日経漢字字体表(99年版)漢字概説』1996年
『表外漢字字体表』2000年
小林肇「字体委員会検討結果」1996年
比留間直和「新聞と表外漢字字体」『SCIENCE of HUMANITY 31』勉誠出版、2001年
比留間直和・松居秀記・小林肇「新聞の使用字体に三類型」『新聞研究』1999年8月号
≪参考リンク≫
漢字ペディアで「蹊」を調べよう
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≪著者紹介≫
小林肇(こばやし・はじめ)
日本経済新聞社 用語幹事
1966年東京都生まれ。金融機関に勤務後、1990年に校閲記者として日本経済新聞社に入社。編集局 記事審査部次長、人材教育事業局 研修・解説委員などを経て2019年から現職。日本新聞協会新聞用語懇談会委員。漢検漢字教育サポーター。漢字教育士。 専修大学協力講座講師。
著書に『マスコミ用語担当者がつくった 使える! 用字用語辞典』(共著、三省堂)、『謎だらけの日本語』『日本語ふしぎ探検』(共著、日経プレミアシリーズ)、『文章と文体』(共著、朝倉書店)、『日本語大事典』(項目執筆、朝倉書店)、『大辞林第四版』(編集協力、三省堂)、『加山雄三全仕事』(共著、ぴあ)、『函館オーシャンを追って』(長門出版社)がある。2019年9月から三省堂辞書ウェブサイトで『ニュースを読む 新四字熟語辞典』を連載。