姓名・名づけ

新聞漢字あれこれ42 「悦」と「一」は同じだった?<前編>

新聞漢字あれこれ42 「悦」と「一」は同じだった?<前編>

著者:小林肇(日本経済新聞社 用語幹事)

 皆さんは「悦」と「一」が同じ字であるといったら、どう思うでしょう? どちらも常用漢字表にある別字のはずですが、ある地方では名付けで同じ字のように使われているという説があるのです。

 2018年1月、漢字漢語研究会で「叙勲記事に見える漢字の地域性―新聞外字調査から―」という発表をしました。その質疑応答の時間、国立国語研究所の新野直哉准教授から「秋田県では名付けで『一』の字を使うようなところに『悦』の字を使うという話がある」との発言がありました。東北地方の方言ではイ音とエ音の混同で「一(イチ)」が「エヅ」のように発音されやすく、より発音に近くて良い意味を持つ「悦」にしている人がいるのではないかとのことでした。

 これについては東京大学教授だった柴田武氏の著書『生きている方言』に、雑誌『言語生活』昭和39年8月号に載った「発音の混同と人名」という投稿文を紹介するくだりがあります。同書には「旭川市の臼田弘氏によると、秋田県の高校合格者名簿に『悦』のつく男子学生がいやに多いのに気づいて、合格者名簿を全部調べてみると、健一・清市などのように『一』とか『市』とかがつく名が一九一人、それに対して、健悦・清悦などのように『悦』のつく名が六十人もいたという。この割合は、おそらく、東北地方以外と比べたら、かなりの高率であろう」と記述されています。また、共立女子大学の半沢幹一教授も『日本語学』2018年7月号掲載のコラムで、秋田県にいる2人の叔父の名前(康逸、善悦)を挙げ「方言では、『一』も『逸』も『悦』も、実際には同じ発音ではあるまいか」と指摘しています。とすると、人名に使う漢字に方言が影響していることになるのでしょうか。

都道府県別の「悦」の付く人名割合

 実際に秋田県や東北地方に「悦」の名前の人が多いのか、記事データベース「日経テレコン」を使い、2000~2019年の20年分の叙勲記事を検索して調べてみました。叙勲記事は受章者の氏名と居住する都道府県名が載っているため、漢字の地域性を調べるのに役立つ情報です。全受章者16万6411人の中から名前に「悦」の字を持つ人と居住する都道府県名を抜き出してみたところ、結果は150人で秋田県は36人(24%)と第1位。同じ東北の岩手県、宮城県の19人(13%)が2番手につけ、北海道14人、青森県13人と続きます。秋田県が突出して多く、東北6県で91人(61%)、北海道を含めると105人で全体の7割を占めました。人の移動は常にあるもので必ずしも出身地と居住地が同じとは限りませんが、「悦」の名前の人が東北を中心とした北日本に多いという傾向があるのは分かりました。

「悦」の名前ランキング.pdf

 では、名付けに「一」の代わりに「悦」を用いたという事実は本当にあったのか。1930年代後半に全国の産育習俗を調査してまとめられた『日本産育習俗資料集成』で、各地の名付けに関する慣習を調べてみました。秋田県の項目を見ると「いし子・かね子・岩吉・鉄治など固いもので命名すれば健康児になる」などとの記述はありましたが、「悦」については全く触れられておらず、残念ながら東北の他県の項目にも情報は見当たりませんでした。有力な手掛かりがなく、「あった」とは断言できません。

 春の叙勲受章者が4月29日に発表されます。今年も東北からの受章者に「悦」の名前の人がいることと思われますが、「悦と一が同じ」であると証明するのはなかなか難しそうです。

後編に続きます●

≪参考資料≫

大藤修『日本人の姓・苗字・名前 人名に刻まれた歴史』吉川弘文館、2012年
柴田武『生きている方言』筑摩書房、1965年
はんざわかんいち「ことばのことばかり(52) それを何と発音するか」明治書院『日本語学』2018年7月号
恩賜財団母子愛育会編『日本産育習俗資料集成』第一法規出版、1975年

≪参考リンク≫

漢字ペディアで「悦」を調べよう
漢字ペディアで「一」を調べよう
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≪著者紹介≫

小林肇(こばやし・はじめ)
日本経済新聞社 用語幹事
1966年東京都生まれ。金融機関に勤務後、1990年に校閲記者として日本経済新聞社に入社。編集局 記事審査部次長、人材教育事業局 研修・解説委員などを経て2019年から現職。日本新聞協会新聞用語懇談会委員。漢検漢字教育サポーター。漢字教育士。 著書などに『謎だらけの日本語』『日本語ふしぎ探検』(共著、日経プレミアシリーズ)、『文章と文体』(共著、朝倉書店)、『日本語大事典』(項目執筆、朝倉書店)、『大辞林 第四版』(編集協力、三省堂)、『加山雄三全仕事』(共著、ぴあ)、『函館オーシャンを追って』(長門出版社)がある。2019年9月から三省堂辞書ウェブサイトで『ニュースを読む 新四字熟語辞典』を連載。

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