姓名・名づけ難読漢字

新聞漢字あれこれ91 幽霊漢字があやうく紙面に

新聞漢字あれこれ91 幽霊漢字があやうく紙面に

著者:小林肇(日本経済新聞社 用語幹事)

 3月のある日。日本経済新聞朝刊に載る企業人事の記事で、「橳島」さんという姓が、あやうく「椦島」で紙面化しそうになりました。

 毎年3月は、新年度に向けた企業の人事異動が多く発表され、多い日には2000人もの氏名が役職とともに紙面を埋め尽くします。これだけの人数になれば、入力段階で全くミスがないというわけにはいきません。なかには見慣れない字もあって、入力すること自体、難しい場合もあるのです。そんなさなか「橳」「椦」の混乱が起こりました。

 その日は人事の校閲担当ではありませんでした。たまたまある企業の記事を見たところ、「椦島」となっていたのです。企業の所在地が群馬県だったので、もしやと思い、出稿元へ「群馬県には『ぬでしま(ぬでじま)』という地名・姓があります。『椦』ではなくて『橳』ではないでしょうか」とメールで問い合わせました。ほどなく「橳が正しい」ことが分かり、事なきを得ました。企業の発表資料をファクスでやりとりしているうちに、漢字が不鮮明になってしまったことが間違いの原因でした。

 「橳」はJIS第3水準の漢字で、私が日々採集している「超1級漢字※」のひとつです。これまでも群馬県関係での使用例があったこと、『国字の字典』などにも群馬県前橋市の地名であるとの記述がありましたので、『橳』で間違いないだろうと思ったしだいです。ちなみに「椦」はJIS第2水準の漢字ではありますが、「字義未詳」の〝幽霊漢字〟と言われるものです。JISに「橳」を収録すべきところ、誤写により「椦」が規格化されたとされ、増補改訂JIS漢字字典』には「誤掲出」とありました。はからずもJISと同じミスが紙面で繰り返されるところだったのです。笹原宏之・早稲田大学教授の『国字の位相と展開』によれば「『橳』を『椦』と記す誤写の例は、他にも複数の例が存在する」のだそうです。

 問い合わせメールでのやり取りは校閲部署の全員が見られる設定になっていました。翌日、「何ですぐに橳と分かったのですか」との質問を複数の部員から受けました。どちらも珍しい字だっただけに、不思議だったのでしょう。その場では説明すると長くなるので「たまたま知っていたから」とだけ答えました。質問者にはこのコラムを読んでもらうことにしましょう。

※超1級漢字:JIS第1・第2水準以外の漢字のこと。筆者の造語。漢検1級の出題範囲である約6000字がJIS第1・第2水準を目安としていることから。

≪参考資料≫

笹原宏之『国字の位相と展開』三省堂、2007年
丹羽基二『人名・地名の漢字学』大修館書店、1994年
森岡浩『47都道府県・名字百科』丸善出版、2019年
『国字の字典 新装版』東京堂出版、2017年
『新潮日本語漢字辞典』新潮社、2007年
『増補改訂JIS漢字字典』日本規格協会、2002年
『日本行政区画便覧③ 関東 北陸』日本加除出版

≪参考リンク≫

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≪著者紹介≫

小林肇(こばやし・はじめ)
日本経済新聞社 用語幹事
1966年東京都生まれ。1990年、校閲記者として日本経済新聞社に入社。2019年から現職。日本新聞協会新聞用語懇談会委員。漢検漢字教育サポーター。漢字教育士。 専修大学協力講座講師。
著書に『マスコミ用語担当者がつくった 使える! 用字用語辞典』(共著、三省堂)、『謎だらけの日本語』『日本語ふしぎ探検』(共著、日経プレミアシリーズ)、『文章と文体』(共著、朝倉書店)、『日本語大事典』(項目執筆、朝倉書店)、『大辞林第四版』(編集協力、三省堂)などがある。2019年9月から三省堂辞書ウェブサイトで『ニュースを読む 新四字熟語辞典』を連載。

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