漢字の使い分け

新聞漢字あれこれ106 相手に引かれる、その意味は…

新聞漢字あれこれ106 相手に引かれる、その意味は…

著者:小林肇(日本経済新聞社 用語幹事)

 先日、「引く」の表記について考えさせられました。同じ漢字を使っても、意味の取り方が全く違ってしまう事例があったからです。

 NHKのニュースサイトの「“おじさん構文”なんで引かれるのカナ?」という記事を見て、見出しの「引かれる」が気になりました。「おじさん構文」とは、中高年男性がメールなどでのやりとりで使いがちな独特の言い回しのこと。それが若者に嫌がられているということなのですが、「引かれる」には気持ちを引き付けられるという意味もあります。「おじさん構文」を全く知らなければ、意味を取り違える人もいるかもしれません。
 日本経済新聞の表記基準をまとめた『NIKKEI用語の手引2017年版』では「ひく」の項目は次のようになっています。

ひく
 =(曳く、牽く、惹く、退く、抽く)→引く〔一般用語〕網を引く、風邪を引く、くじを引く、車を引く、辞書を引く、線を引く、注意を引く、手ぐすね引く、同情を引く、引く手あまた、人目を引く、身を引く、例を引く


 日経に限らず、新聞各社は同じような使い方をしています。「曳く、牽く、惹く」は常用漢字表にはない表外字であり、「退く、抽く」は常用漢字表の表外訓であるため、これら5表記は使用せずに「引く」に統一することになっています。「引く」を一般用語とすることで、複雑な漢字の使い分けをしないで、読者にわかりやすく伝えることができるからです。

 ニュースサイトの見出しが伝えたかったのは5種ある表記の中で「退く」の意味でした。『三省堂国語辞典第八版』によれば、「相手が異様で、近づきたくない気持ちになる」「しらけて、相手にしたくなくなる」意味は1990年代からの用法とのこと。一方の「惹く」は「人の気持ちを〈自分/そこ〉へ向かわせる。引きつける」意味で、両者は正反対になります。相手に引(惹)かれても、その相手に引(退)かれることは、恋愛の場面ではよくあることだと思いますが、表記が同じ「引く」では紛らわしくなってしまいますね。

 同音異義語、同訓異字で正反対の意味になる語があるという話は、連載の第98回第99回で取り上げました。今回は同じ「引く」と書いて逆の意味になるわけですから、さらに厄介です。通常の新聞記事の場合、「引く」と書いて、「退く」「惹く」のどちらの意味にもとれて読者を悩ませるような場面はまず出てきませんが、もし出てくるようなことがあったら……。今回の見出しに引かれたおじさんの考えすぎでしょうか。

≪参考資料≫

『漢字の使い分けときあかし辞典』研究社、2016年
『三省堂国語辞典第八版』三省堂、2022年
『NIKKEI用語の手引2017年版』

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≪著者紹介≫

小林肇(こばやし・はじめ)
日本経済新聞社 用語幹事
1966年東京都生まれ。1990年、校閲記者として日本経済新聞社に入社。2019年から現職。日本新聞協会新聞用語懇談会委員。漢検漢字教育サポーター。漢字教育士。 専修大学協力講座講師。
著書に『マスコミ用語担当者がつくった 使える! 用字用語辞典』(共著、三省堂)、『謎だらけの日本語』『日本語ふしぎ探検』(共著、日経プレミアシリーズ)、『文章と文体』(共著、朝倉書店)、『日本語大事典』(項目執筆、朝倉書店)、『大辞林第四版』(編集協力、三省堂)などがある。2019年9月から三省堂辞書ウェブサイトで『ニュースを読む 新四字熟語辞典』を連載。

≪記事画像≫

TRAIMAK / PIXTA(ピクスタ)

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