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あつじ所長の漢字漫談41 鹿児島と「麑」――地名の表し方

2018.10.31

あつじ所長の漢字漫談41 鹿児島と「麑」――地名の表し方

 地方に暮らしている人が東京に行くことを「上京」というようになったのは、もちろん東京が首都になってからのことですが、ではそれが日常的に使われるようになったのは、いったいいつ頃からでしょうか?

 「上京」という言葉は『日葡辞書』(イエズス会宣教師が作った日本語=ポルトガル語辞典。1603 年に長崎で出版)にも「Miacoye noboru」(みやこへのぼる)と出てきますが、その「みやこ」は京都のことでした。「上京」とはこのようにだれかが首都に行くことで、東京遷都のあとは自動的に東京に行くことを意味するようになりました。ちなみに小学館の『日本国語大辞典』では、用例として明治から昭和にかけて活躍した江見水蔭(えみすいいん、小説家、1869-1934)が1891年に著した『今弁慶』という作品が採られていますが、しかしこれが最古の用例かどうかはわかりません。

 「上京」の反対に、東京に住む人がたとえば大阪に行くことを「上京」式の漢字表現でなんというかといえば、それはどうやら適当な言い方がないようです。しかし逆に大阪から見て、誰かが大阪にやって来ることを「来阪」、大阪の人が出先から大阪に戻ることを「帰阪」といいます。このように、誰かがその都市に来ることを意味する言い方は各地にあり、たとえば名古屋では「来名」、静岡では「来静」、仙台では「来仙」というようです。それと同じような例は、きっと全国各地にあることでしょう。なお福島県と福井県ではどちらも「来福」というそうですが、実際には文脈によってわかるので、二つが混同されることはまずありません。

 近頃では「南アルプス市」や「ユーカリが丘」などカタカナを使った地名もありますが、日本の地名はほとんど漢字で書かれています。地名の漢字は、「東京」や「京都」「仙台」「日光」などでは音読みが使われていますが、それはむしろ少数派で、「千葉」「福岡」「横浜」「酒田」「広島」「宮崎」「香川」「島根」「熊本」・・・などなど、圧倒的多数の地名が訓読みで読まれています。地名はもともと土地の歴史や環境などに関する「やまとことば」に由来するものが多く、そんな場合では漢字を使っていても訓読みされるのが一般的でした。

 しかし「阪」や「名」のように、地名を漢字一文字で表す場合には音読みが主流になっています。この言い方はとりわけ鉄道や高速道路などの名称によく見られ、東京と名古屋を結ぶ「東名高速道路」、信州と越後をむすぶ「信越本線」、仙台と山形を結ぶ「仙山線」、東京と横浜を結ぶ「京浜急行」、かつて青森と函館を結んだ「青函連絡船」など、その例は枚挙にいとまがありません。「名神」や「青函」は、本来の地名では「名古屋」「神戸」「青森」「函館」と訓読みされていますが、地名が短縮形で使われる時は本来の地名から切り離され、地名では訓読みされている漢字が音読みされます。その結果、鉄道路線名の漢字はほとんど音読みで読まれ、東京と千葉を「京葉線」はケイヨウ線であり、岩国と徳山を結ぶ「岩徳線」はガントク線です(なお東京と埼玉を結ぶ「埼京線」ではサイキョウ線と、埼の訓読み「サイ」が使われているのは例外で、おそらく埼の音読み「キ」が現代の人にはほとんどなじまれていないからだろうと考えられます)。

 このような例で、非常に興味深い例が鹿児島市にあります。 秋もかなり深まったころ、数年ぶりに鹿児島に出かけてきました。今年の鹿児島はいたるところに大河ドラマ「西郷どん」関連が氾濫しており、土地の人も観光客もおおいに盛りあがっていましたが、私は西郷ゆかりの城山や、鹿児島のシンボルである桜島などは以前に見たことがあるので、今回は市内中心部をウロウロしていると、繁華街天文館通りの近くに、フランシスコ・ザビエルを記念した教会と公園がありました。

 イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 1506頃 - 1552)は天文18年(1549)に鹿児島に上陸し、その後大名島津貴久から布教の許可を得て、10ヶ月ほどで150人余りに洗礼をほどこしました。これが日本における最初のキリスト教の布教で、それを記念して、明治末期に市内にザビエル上陸記念堂が建てられました。それが戦災で消失したのを再建したのが、現在のザビエル記念教会です。 この教会が再建されたのは、ザビエル渡来400周年にあたる昭和24(1949)年のことで、その時に教会の向かいにある公園にザビエルの胸像とアーチが作られました。

 そのアーチの右側の扉に「フランシスコザビエ聖師滞麑記念」と記されています。さてこの文章では、ザビエルが滞在した場所が「麑」と書かれていますが、文脈から考えると、この字が「鹿児島」という意味で使われていることはまちがいありません。そして実際にこの漢字は、つい最近まで「鹿児島」という意味で使われていました。というのは、鹿児島でお目にかかった年配の方が、だれかが鹿児島に来ることをかつては「来麑」と表現したと教えてくださったからで、ただそのいい方は今ではもうまったく使われなくなっているそうです(今は「来鹿」ということがあるとのことです)。またこの漢字を社名に使った自動車学校がテレビでよくCMをながしていたので、そのCMでこの漢字を覚えたという人も多いようです。

 しかしこの「麑」は、本来はある動物を表す漢字でした。

 古代中国の百科事典で、また儒学の経典の一つともされた『爾雅』(じが)という書物があって、そのうちいろんな動物について説明している部分(「釈獣」)に、虎や豹まで食べる獰猛な動物(唐獅子と解釈されています)の名前に、この「麑」という漢字が使われています。ほかにも『三国志』でおなじみの曹操の息子である曹丕が作った「短歌行」という詩に「呦呦と遊ぶ鹿、草を銜(は)み鳴く麑」とあって、こちらの方は「子鹿」という意味で使われているようです。

 「麑」は音読みでゲイと読み、とても獰猛な動物、または子鹿を意味する漢字として中国に古くから辞書に載っています。しかしザビエル教会の門柱では、これが「鹿児島」という地名を示す漢字として使われています。それはこの漢字が《鹿》と《児》(本来の字形は兒)を組みあわせた形になっていることから、鹿児島という地名を表す文字として使ったにちがいありません。

 「帰阪」してから調べてみると、鹿児島のことを「麑」という字で表した例は実は非常に古く、『続日本紀』の天平宝字8年(764)12月の条に、
 是ノ月、西方ニ声有リ、雷ニ似テ雷ニ非ズ、時ニ大隅薩摩両国ノ堺ニ当リテ、烟雲晦冥シテ奔電去来ス。七日ノ後スナハチ天晴レ、麑嶋信尓村ノ海ニ於イテ、沙石自ラ聚リテ、化シテ三嶋ト成ル。(以下略)
と記されています。

 鹿児島という地名は、一説によれば船頭・漁夫をいう古語「カコ」に由来し、またシマとは「一定の地域」という意味だとされています。そしてこの名称が文献に登場する『続日本紀』では、「カコ」の「シマ」という地名を表す漢字として「麑」という字を選択しました。そこではその文字がもつ本来の意味は意識されず、単に字形を構成するふたつの要素の字音を表音的に採用しただけでした。

 ここに日本人が中国から導入した漢字を、日本語の表記に適するように工夫して使ってきた、非常にユニークな例を見いだすことができます。

《関連リンク》
漢字ペディアで「」を調べよう
漢字ペディアで「鹿」を調べよう

《著者紹介》
atsuji_muse.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像
阿辻哲次(あつじ てつじ)
京都大学名誉教授 ・(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所所長

1951年大阪府生まれ。 1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。静岡大学助教授、京都産業大学助教授を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として2010年の常用漢字表改定に携わる。2017年6月(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所長就任。専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
著書に「戦後日本漢字史」(新潮選書)「漢字道楽」(講談社学術文庫)「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)など多数。また、2017年10月発売の『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の編者も務めた。
●『角川新字源 改訂新版』のホームページ
 

《記事写真・画像出典》
ザビエル滞麑記念碑(全体・部分)・東京駅案内板 著者撮影
『爾雅』「釈獣」著者架蔵民國排印本

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