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ほくそ笑むは「北叟笑む」か 【漢検1級で出題された熟語を解説! 7】

ほくそ笑むは「北叟笑む」か 【漢検1級で出題された熟語を解説! 7】

著者:田中郁也(漢字文化研究所主任研究員)

 

 漢検最難関の1級では、約6,000字の対象漢字の中からさまざまな熟語が出題されます。中には、漢字そのものは知っていても、複雑な読み方やその言葉の意味を知らないと答えられない問題も。
 このコラムでは、実際に過去に漢検1級で出題された熟語を漢字文化研究所の専門家が、その背景なども詳しく解説します!


◇  ◇  ◇



 2019年第1回の1級の書き取り問題に、「大金を手にして一人 ホクソエ む。」(標準解答:北叟笑)が出題されました。

 「ほくそ笑む」を国語辞典で引くと、「人間万事塞翁が馬」の主人公である北叟(ホクソウ)が幸不幸、喜憂のいずれに対しても少し笑ったという故事から、「ほくそ笑む」を「北叟笑む」と書くのだ、という説明が載っています。
 この説明は、どのような史料に基づくものなのでしょうか。

1) 淮南子の「人間万事塞翁が馬」

 よく知られる「人間万事塞翁が馬」は、前漢の思想書『淮南子』*1 に見える故事です。辺境に住む老人(「近塞上之人」)の馬が逃げ、それがかえって幸運を呼び、やがて不幸に転じ、さらにまた幸に転ずるという物語です。

 これは慣用表現「禍福はあざなえる縄のごとし」の元となった話で、高校の漢文教科書などにも採録されています。
 ところが、『淮南子』では、この話の主人公を「塞上に近き人」「父」と呼んでおり、「北叟」という名前は出てこないのです。

2)「北叟」とは

 この故事の主人公が「北叟」と呼ばれるのは、後漢の歴史家班固の「幽通賦」*2 でのことです。しかしこの「北叟」とは固有名詞ではありません。最古の漢字字典『説文解字』(漢・許慎、西暦100年)に「叟、老也」(叟は老である)と書かれていることからわかる通り、「北の老人」という意味です。
 ここで少し脱線して「叟」字について見ておくと、「叟」を〈老〉の意味で使うのはしゃであると一般に考えらえれています(「仮借」についてはこちら<「不亀手之薬」(2025年7月12日掲載)を参照)。もともとこの字は建物と火とを手とを組み合わせた会意字(図1)で、〈捜す〉という意味であったと考えられています。それが、〈老〉という意味で使われることが増えたため、手偏をつけた「捜」という字を新たに作り、〈探す〉という意味を担わせるようになりました*3 。



甲骨文の「叟」の図(図1)甲骨文の「叟」


3)中国の北叟は笑わない

 閑話休題。「人間万事塞翁が馬」という中国故事に由来する言葉である以上、中国にも「北叟笑む」というような表現があるのではないかと思ってしまいます。ところが、中国ではこのような慣用表現は確認できません。この故事に関係する成語として知られているのは、「北叟失馬」(禍福は糾える縄のごとしの意)であって、北叟が笑うという話は出てこないのです。
 ところが、日本の文献に目を移すと事情が変わります。鎌倉時代の説話集である『妻鏡』(無住撰か、13世紀末)には、中国古代に都の北に住む老人「北叟」が、世間の無常を知り、喜びごとにも悲しみごとにも少し笑っていたので、俗にそのように少し笑うことを「ほくそ笑い」というのだ、と書かれています。しかしここでは、この北叟が「塞翁が馬」の主人公であるとは明示されていません。単に無常を悟った隠者として登場しています*4 。

 さらに時代が下り、室町時代の辞書『壒嚢あいのうしょう』(巻三、二十五)では、塞翁すなわち北叟が「少し笑う」人物として説明され、「ほくそ笑む」の語源が「塞翁が馬」にあるとする説が示されます。ここではじめて、「笑う北叟」と「塞翁が馬」とがはっきり結びつけられるのです。

 史料の上で確認できる順序を整理すると、
① 『淮南子』をはじめとした中国文献には「笑う北叟」は見えず、
② 日本では『妻鏡』に「無常を悟った隠者としての笑う北叟」が現れ、
③ その後『壒嚢抄』で「笑う北叟」が「塞翁が馬」と結びつけて説明される、
 という流れとなります。
 この順序に従うかぎり、「ほくそ笑む」という言葉がまず存在し、そこに後から「塞翁が馬」の故事が載せられたと見えます。少なくとも、「塞翁が馬」の故事から直接的に「ほくそ笑む」が生まれたと考えるのには、慎重さが求められるでしょう。

4)現代の「ほくそ笑む」

 「漢字ペディア」には、

 ほくそ笑む 
 物事が思いどおりにうまくいったとき、満足してひそかに笑う。にやにやする。

 とあり、とくに悪い意味で使うものではなさそうです。多くの国語辞典でもやはり同様の説明が載っていますが、「してやったりとひとりでにやりとする。」という用例を載せるとおり、現代日本では「ほくそ笑む」は否定的な文脈で使われていることが多そうで、直接的に「どちらかといえば否定的な表現である」と書かれているものまであります*5 。恐らく、ことばの意味が変わってきているもののまだ辞書には反映されていない、そんな状態なのでしょう。
 それにしても、無常を知る賢者は、なぜ微笑むのでしょうか。禅宗にも「ねんしょう」(釈迦が蓮華をひねり、迦葉がその意味を理解して微笑したこと。以心伝心を表す。)*6 という言葉があります。無常観と微笑とが結びつく思想的背景があるのかどうかは、門外漢である私にはわかりませんが、少なくとも史料上確認できる限りでは、中国に「笑う北叟」は存在せず、日本において形成された可能性が高いと言えそうです。



次回は4月12日(日)に公開予定です。

≪注釈≫

1 巻十八「人間訓」。原文は「夫禍福之転而相生、其変難見也。近塞上之人有善術者、馬無故亡而入胡、人皆弔之。其父曰、此何遽不為福乎。居数月、其馬将胡駿馬而帰、人皆賀之。其父曰、此何遽不能為禍乎。家富良馬、其子好騎、墮而折其髀、人皆弔之。其父曰、此何遽不為福乎。居一年、胡人大入塞、丁壯者引弦而戦、近塞之人死者十九。此独以跛之故、父子相保。故福之為禍、禍之為福、化不可極、深不可測也。」
2 『文選』巻十四「鳥獣」所収「幽通賦」。
3 李学勤『字源』(天津古籍出版社、2012年)などによる。
4 内田澪子「(コラム)「北叟」と「塞翁」」『アジア遊学155 もう一つの古典知』(勉誠出版、2012年)は「『淮南子』話を一端咀嚼し、仏教的色彩を加えて構成しなおした躰の一話」という。
5 用例は山田俊雄等編『新潮現代国語辞典(第二版)』(新潮社、2000年)、中村明編『文章プロのための日本語表現活用辞典』(明治書院、1996年)など。否定的表現と直接的に表現するのは山根智恵監修『研究社日本語口語表現辞典』(研究社、2013年)。
6  『岩波仏教辞典(第三版)』(岩波書店、2023年)の解説による。

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≪参考リンク≫

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