まぎらわしい漢字姓名・名づけ

新聞漢字あれこれ120 キクチ選手はどう思ったのか

新聞漢字あれこれ120 キクチ選手はどう思ったのか

著者:小林肇(日本経済新聞社 用語幹事)

 例年、4月から6月にかけて新人記者研修を行っています。そこで必ず話しているのが、「キクチ選手はどう思ったか」です。

 小学校で習う「池」と「地」。どちらも音読みは「チ」、つくりが「也」で少し似た字ではありますが、単独ではまず間違うことはないでしょう。ただ、これが姓のキクチとなると、「菊池」「菊地」の両表記があり、よく混同されます。

 新人研修では間違いやすい人名を10人くらいパソコンに入力させる演習を行っています。「人間は間違うものだからこそ点検が大事である」ということを身をもって体験してもらうという趣旨です。正しい表記を見ながらでも、短い制限時間で入力するとなると間違うことがあり、プロゴルファー「菊地絵理香」の姓を「菊池」に、名を「絵里香」などと誤る人は少なくないのです。

 キクチ姓は東北地方に多いといわれます。もとは肥後国菊池郡(現在の熊本県菊池市)を発祥とし、「菊池」と名乗っていたものが分流する際に「池」を「地」に変えていったといいます。人数的には「菊池」の約17万人に対し「菊地」が約19万人とされ、校閲をしていると多数派の「菊地」を少数派の「菊池」に間違う事例がかなり多いと感じます。経験則からすると9割以上でしょうか。

 なぜ、「菊地」を「菊池」に間違うのか。これは「菊池」のほうに著名人が多いからだとする説があります。確かに菊池寛(作家、文芸春秋社創設者)、菊池桃子(俳優・歌手)、菊池雄星(トロント・ブルージェイズ投手)といった名前がまず頭に浮かびます。見慣れた「池」表記を「正しい」とする思い込みが働くのかもしれません。

 連載の第49回で触れた話ですが、スポーツ大会などで活躍した生徒を「○○君、△△大会で優勝」などと垂れ幕を掲げ顕彰している高校があります。ある年、「菊地」という生徒の氏名で「地」が切り貼りされていたことがありました。おそらく「池」と間違ったのでしょうが、これを当の菊地選手はどう思ったものか。翻って新聞で名前を間違えられた人がいたらその新聞をどう思うか。新人研修ではこうした問いかけをしています。誤字は完全にはなくなりませんが、減らすための取り組みは続けなければなりません。

 思い込みを排除する――。記事を書く記者、校閲記者の双方にとって大事な心構えです。研修で話したことが新人たちにきちんと伝わってくれていることを祈りつつ、今日も人名チェックに当たります。

※文中の敬称は略しました。

≪参考資料≫

NHK番組制作班編『日本人のおなまえっ! 日本がわかる名字の謎』集英社インターナショナル、2019年
森岡浩『47都道府県・名字百科』丸善出版、2019年
『姓氏の由来ものしり事典』ベネッセコーポレーション、1997年
『地名苗字読み解き事典』柏書房、2002年
『マスコミ用語担当者がつくった 使える! 用字用語辞典』三省堂、2020年
『ルーツがわかる名字の事典』大月書店、2012年

≪参考リンク≫

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≪著者紹介≫

小林肇(こばやし・はじめ)
日本経済新聞社 用語幹事
1966年東京都生まれ。1990年、校閲記者として日本経済新聞社に入社。2019年から現職。日本新聞協会新聞用語懇談会委員。漢検漢字教育サポーター。漢字教育士。 専修大学協力講座講師。
著書に『マスコミ用語担当者がつくった 使える! 用字用語辞典』(共著、三省堂)、『謎だらけの日本語』『日本語ふしぎ探検』(共著、日経プレミアシリーズ)、『文章と文体』(共著、朝倉書店)、『日本語大事典』(項目執筆、朝倉書店)、『大辞林第四版』(編集協力、三省堂)などがある。2019年9月から三省堂辞書ウェブサイトで『ニュースを読む 新四字熟語辞典』を連載。

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