歴史・文化難読漢字

「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容④ ~平安・鎌倉時代の「嬲」と「嫐」~

「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容④ ~平安・鎌倉時代の「嬲」と「嫐」~

筆者:笹原宏之(早稲田大学教授)

4.平安・鎌倉時代の「嬲」と「嫐」

 日本の人々は、中国で生み出された数々の事物を歴代、様々な形で選んでは受け入れてきました。中国ではとっくに廃絶されたものを後生大事に使い続ける現象は、日本の随所に見られます。

 「嬲」という字もまた、早くも平安時代のごく初期に、僧の景戒が仏教説話集の『日本霊異記』で用いました。そこには、読み方を示す訓注が付され、「なぶる」と読まれています。この字は、こういう注記がなければ読めない、読みにくいと思われたことが伺えます。

 辞書では、現存最古の漢和辞典といえる天治本『新撰字鏡』に、「嬲」は「わつらはす」(わずらわす)と読む「㛴(惱の立心偏は女)」という字と同じ、また「嬈」とも同じとされています。後者はすでに述べた字であり、このあたりは中国の書籍から影響を受けた記述でした。

 この辞書は、昌泰年間(898~901年)にやはり僧の昌住が編纂したものでした。折しも894年には遣唐使が廃止されています。日本の人々はさらに宗教や思想から道具、食品など舶来の文化、事物に対してカスタマイズつまり国風化を怠らなくなります。これらの字に対しても独自の使い方を発展させていくのです。
 平安時代に著された『将門記』は、10世紀の半ばに関東で起こった平将門の乱を描いた軍記物語ですが、その真福寺本(1099年写)には、本文に「嫐」という字が使われています。楊守敬本には「ネタム」、群書類従本には「ナヤム」と傍訓(フリガナ)が付されています。この「なやむ」は、当惑する、あるいは妬む意とされます。

 平安時代の院政期の末の12世紀に、橘忠兼が編んだ国語辞典である『色葉字類抄』(前田本・黒川本)では、「嬲」の読み方は「なふる」ですが(「男」2つだけの字やその誤写の「男」の右に「鬼」という字も並べられています)、「嫐」には「ねたむ」(中国の「悩」の意から。『色葉字類抄(巻中)略注』参照)のほか、「うらやむ」という訓もあったことが分かります。
 日本の人々は字の形に着目し、そこから連想した意味をその字に新しく持たせることを好む指向性があるようです。それは会意的な「国訓」(日本独自の字義)にとどまらず、漢字(列)に対して自由に解釈をして読んでしまう「当て読み」、文字の成り立ちを勝手に解釈する「字源俗解」、さらには熟語の構成方法やその意味に対する二次的な解釈など、さまざまなレベルで確かめられます。それらは、大きくいえば、日本人が好んできた見立ての一種ともいえるでしょう。

 鎌倉時代になると、平安時代(1100年ころ)に僧侶が編纂した漢和辞典である『類聚名義抄』を増補改編した観智院本という写本が生まれ、「嬲」に、
  たはふる (たわむれる)
  なふる  (なぶる)
  なやます
のほか、
  まさくる (まさぐる)
さらに、
  ひきしろふ(ひきしろう)

つまり、引っ張り合う、引き連れるという、おそらく日本で生まれていた意味を表す訓まで収めるようになりました。二人の男が一人の女性を引くという新たなイメージでこの字を用いた人がいたのでしょう。
 一方の「嫐」は、「嬲」とは字音も部首も別のものとして分かれてしまっており、訓としては「ねたむ なやむ」のほかに「うはなり」も載せられています(記事トップ画像を参照)。この字は、日本では、早くも鎌倉時代、もしかすると平安時代から、後家とか嫉妬という意味をもつ「うわなり」という読みでも使われていたことが分かります(江戸歌舞伎での用例はこの末裔といえます)。
 それは、後妻(ウハナリ)に対して先妻が抱く嫉妬の感情から、ウハナリの語にネタミ、ソネミの意が平安時代には派生していたことを反映したものかもしれません。この「女男女」という字面は、男女の間に、新たな一人の女性が後から加わってきたように見えますし、そうなることで起こる嫉妬心や修羅場も連想でき、心情や場面が頭に浮かびます。
 
 これらの新たな国訓からは、日本の人たちの中国の人とは異なる独特な発想を見て取ることができます。

≪参考リンク≫

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「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容(全9回)

はじめに
中国での「嬲」と「嫐」
「嬲」と「嫐」
④平安・鎌倉時代の「嬲」と「嫐」
南北朝時代から江戸時代までの「嬲」と「嫐」
地名とJIS漢字の「嬲」と「嫐」
フランス人の「嬲」
フランス在住のルーマニア人の「嬲」
スペイン人、スイス人、ドイツ人ほかの「嬲」と「嫐」

≪著者紹介≫

笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
東京都出身。国立国語研究所主任研究官等を経て早稲田大学教授。
博士(文学)。専門は言語学(文字・表記論)。日本漢字学会理事、日本語学会評議員。
単著に『国字の位相と展開』(三省堂 金田一賞、白川賞)、『日本の漢字』(岩波書店)、『漢字ハカセ、研究者になる』(同)、『方言漢字』(KADOKAWA)、『謎の漢字』(中央公論新社)、『画数が夥しい漢字121』(大修館書店)等。デジタル庁の行政事務標準文字、経済産業省のJIS漢字、法務省の人名用漢字・戸籍のフリガナ、文化庁の常用漢字、NHK放送用語、日本医学会用字、漢検奨励賞、『新明解国語辞典』、『三省堂 中学国語』、『光村教育図書 小学新漢字辞典』、『日本語学』(明治書院)等に関する委員を務める。

≪トップ画像≫

『類聚名義抄』国会図書館より引用

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