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「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容② ~中国での「嬲」と「嫐」~

2023.09.12

「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容② ~中国での「嬲」と「嫐」~

筆者:笹原宏之(早稲田大学教授)

 前回は「嬲るより、嫐られたい。」に見られるように、「女」「男」の配置に意味上の違いを感じ、それを字面に応じて使い分けてきた日本人の特性について触れました。今回は、中国で「嬲」がどのように生まれたのか、字源についてお話しします。

2 中国での「嬲」と「嫐」

 中国で刊行され、共和国の『康煕字典』とも呼ばれる大型の字書である『漢語大字典』は、唐代の玄応の『一切経音義いっさいきょうおんぎ』が引く『三蒼さんそう』に、「嬲 弄也」とあるとしています。
 『三蒼』とは、秦代から漢代にかけて編纂された『蒼頡篇そうけつへん』以下の3種の字書のことで、唐代にはまだかなり残っていたようです。

 その『一切経音義』の用例は、清代に段玉裁が見つけていたものでした。該当する箇所は、『一切経音義』の巻1にあるという資料もありましたが、いま山田孝雄『一切経音義索引』を用いて、ありうる箇所を逐一当たってみたところ、日本に伝わる大治本の影印では巻3でした(後に、唐代の慧琳えりんも同名の音義書でそれを引いています。これらのデータベース化の完了が待たれます)。

 ただし、そこでは『三蒼』にこの字があったと記述されているようにも読み取れますが、引用箇所が明示されていなかったために微妙です。また巻2にもそのような記述があるのですが同様でした。そして他の巻では、『三蒼』には同義の「じょう」という字があったと記載されています。「嬈」は、なぶる意のより古くからある形声文字です。

 『三蒼』は後に散逸してしまい、出土した残巻なども集められていますが、まだ秦・漢の時代にすでに「嬲」があったことは証明できていません(注)。

 いずれにせよ、まず、「嬈」という字が生みだされ、続けて後にそれを発音よりも意味が分かりやすいようにと「男」「女」を組み合わせて会意文字にしたのが「嬲」でした。つまり「嬲」は「嬈」の異体字だったわけです。

 伝来する文献を見ていくと、昭明太子が編んだアンソロジー『文選』には、魏の嵇康けいこうの「與山巨源絶交書よさんきょげんぜっこうしょ」において「嬲」が「なぶる」から派生した意味で使用されているので、少なくとも3世紀の三国時代には存在したことがうかがえます。嵇康は「竹林の七賢」の一人です。同じ頃、「嬲」を竺法護じくほうごも仏典を漢訳する際に用いました。この見るからに怪しげな漢字は、1700年以上も前に中国で作られたものだったのです。

 この字の字源説には、「じょう」の草書体からできたという見方がある一方で、白川静は「かがいでは男女が交わり舞うので、この字を生じた。」(『字通』)と踏み込んだ独自の推測をしています。成り立ちはともかく、この字は、「わずらわしい、なやむ、かきみだす、もてあそぶ、たわむれる、なぶる、いじめる、つきまとう」といった意味を表してきました。


まとめると中国では、1700年以上も前に「嬲」が生まれ、更に遡るとそれが同音異義の「嬈」から派生していたことが分かりました。

(注)仮に「嬲」が『三蒼』にあり、『一切経音義』はそこから引用したものだったとしても、実際には晋代の郭璞かくはくによる注の部分だった可能性もあり(その場合はそう書いているようですが)、秦・漢の時代に本当にこの字があったという確証にはなりません。
 『三蒼』に関しては、現存する別の本に引用された部分(佚文いつぶん)を集めて、『蒼頡篇輯そうけつへんしゅう』などが編まれてきましたが、同じように『一切経音義』などを材料にしているため、ここではあまり役に立ちません。概して古書の引用箇所の特定には困難も生じるものです。間接引用も混じります。孫引きはせずにきちんと引用したことを明記しないと、後代に誤解や混乱を生みます。

次回は10月上旬に公開予定!

≪参考リンク≫

漢字ペディアで「嬲」を調べよう

≪おすすめ記事≫

「嬲る」と「嫐る」の意味の違いは? ~謎の漢字に迫る~ はこちら
「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容①  はこちら


≪著者紹介≫

笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
東京都出身。国立国語研究所主任研究官等を経て早稲田大学教授。
博士(文学)。専門は言語学(文字・表記論)。日本漢字学会理事、日本語学会評議員。
単著に『国字の位相と展開』(三省堂 金田一賞、白川賞)、『日本の漢字』(岩波書店)、『漢字ハカセ、研究者になる』(同)、『方言漢字』(KADOKAWA)、『謎の漢字』(中央公論新社)、『画数が夥しい漢字121』(大修館書店)等。デジタル庁の行政事務標準文字、経済産業省のJIS漢字、法務省の人名用漢字・戸籍のフリガナ、文化庁の常用漢字、NHK放送用語、日本医学会用字、漢検奨励賞、『新明解国語辞典』、『三省堂 中学国語』、『光村教育図書 小学新漢字辞典』、『日本語学』(明治書院)等に関する委員を務める。

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