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「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容⑦ ~フランス人の「嬲」~

2024.03.13

「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容⑦ ~フランス人の「嬲」~

筆者:笹原宏之(早稲田大学教授)

7 フランス人の「嬲」

 7年ほど前に、パリの日本語教師の会に招いていただき、デロワ中村弥生先生ほかの皆さんの鮮やかな手配のお蔭で、INALCO(国立東洋言語文化大学)で、シンポジウムでの講演に加えて、日本語を学習する学生たちに特別講義を行う機会に恵まれました。
 講義を行う前に、INALCOやルーアン大学の学生たちには、あえて珍しそうな字について意味を尋ねておいたのですが、そこには、「嬲」「嫐」も含んでいました。

 日本人は、ジェンダーの差が字形(書風)や表記形に現れやすいと、たくさんの日本人学生らと関わるなかで感じており、その根底には、事物の何に価値を置くかという意識が横たわっているのでは、という想像があったための問いかけでした。
 質問には、「男」「女」を含む漢字もいくつか入れてみました。こんな字まではきっと習っていないだろう、ということと、字の前面に古来のアジアでのジェンダー観が現れているために、何か解釈や発想に関して国民性や独自の個性による意識のようなものが出てこないだろうか、というほのかな期待を込めてのことでした。
 
 前回までに記した東アジア社会でのそうした字の展開についてなど、全く知らないであろうフランスの国立大学に相当するINALCOの日本語学習者に、この字の意味を尋ねてみたわけです。

 すると、1人の「パリジェンヌ」がこの意味を推測して書いてくれた答えは、次のものでした。

  まもる

 ん? そうか!と、ハッとしました。男の人が二人で、女性を守っているのか、と感心しました。目を奪われました。この発想は、古代からの中国には見られなかったものです。漢字を和風にアレンジしてきた日本にもまず見られなかったものです。さらに今まで日本で、何百、何千という人々に、この字の意味を推測してもらい、様々な回答を見てきました。しかし、このような回答は、日本や中国の人たちからは出てきたことがなかったのです。どこか色恋沙汰や痴情のもつれを感じさせるような推測による回答がほとんどだったのですが、それら日本人らの読み取り方とは、明らかに次元を異にしています。
 むしろ、かの三銃士の世界のようで、男女の関係や「男」たちの役割も全く違っています。さすがは、かつて騎士のいた地であり、レディーファーストの国です。字の解釈、当て読みの仕方にも、文化の違いはこれほどまでにはっきりと出るものか、と思い知らされました。フランスは「愛の国」ともいわれます。発想を生み出すための土壌、背景が東アジア社会とは根本から違っていたわけです。
 その地の日本語教師の方によると、フランス人は、情緒面では、ロマンチックな面を持つ一方で、理屈っぽく、論理的に理解できないと納得してくれないのだそうです。それで字を分析することも好むそうです。理屈が分からないと、なかなか個々の漢字が覚えられないとのことで、その点から、形声文字よりも会意文字を好むのだといいます。

 ただ漢字という文字は、実際には音符が意味を表さないタイプの形声文字の方が多いわけで、そうした覚え方には俗解が多発する余地があります。そうした中で、この「まもる」が現れたのでした。これは、私が抱いていた漢字圏の多様性、日本の漢字の自由度の高さというものが、まだ枠にはめられたものだったことを痛感するくらい衝撃的な回答でした。

 日本のアニメや小説が好きになって、日本語を学ぶ外国人が増えています。そうした中で、日本文化の影響をしっかりと受け入れながらも、フランス式、欧風の発想をきっちりと持ち続けて、それを見事に日本語で表現してくれたのです。

 彼女たちも、いずれ日本語の使い手となって、世界で活躍する日が来るでしょう。そして、日本語を書き記す中で、この字に彼らの習慣や思考、感覚に基づいて、振り仮名を付けて「嬲(まも)る」と書く機会がもし生まれるならば、日本人が作った訓読み、国訓ならぬ、フランス人作の「仏訓」(ふつくん)として、知られ始めることでしょう。それを、他のヨーロッパの人たちがしっくりと感じて使うようになったならば、さらに「欧訓」と呼ばれるものになることでしょう。

≪参考リンク≫

漢字ペディアで「嬲」を調べよう

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「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容(全9回)

はじめに
中国での「嬲」と「嫐」
「嬲」と「嫐」
平安・鎌倉時代の「嬲」と「嫐」
南北朝時代から江戸時代までの「嬲」と「嫐」
地名とJIS漢字の「嬲」と「嫐」
⑦フランス人の「嬲」
フランス在住のルーマニア人の「嬲」
スペイン人、スイス人、ドイツ人ほかの「嬲」と「嫐」

≪著者紹介≫

笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
東京都出身。国立国語研究所主任研究官等を経て早稲田大学教授。
博士(文学)。専門は言語学(文字・表記論)。日本漢字学会理事、日本語学会評議員。
単著に『国字の位相と展開』(三省堂 金田一賞、白川賞)、『日本の漢字』(岩波書店)、『漢字ハカセ、研究者になる』(同)、『方言漢字』(KADOKAWA)、『謎の漢字』(中央公論新社)、『画数が夥しい漢字121』(大修館書店)、『方言漢字事典』(研究社)、『美しい日本の一文字』(自由国民社)等。デジタル庁の行政事務標準文字、経済産業省のJIS漢字、法務省の人名用漢字・戸籍のフリガナ、文化庁の常用漢字、NHK放送用語、日本医学会用字、漢検奨励賞、『新明解国語辞典』、『三省堂 中学国語』、『光村教育図書 小学新漢字辞典』、『日本語学』(明治書院)等に関する委員を務める。

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