歴史・文化難読漢字

「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容⑥ ~地名とJIS漢字の「嬲」と「嫐」~

「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容⑥ ~地名とJIS漢字の「嬲」と「嫐」~

筆者:笹原宏之(早稲田大学教授)

6 地名とJIS漢字の「嬲」と「嫐」

 さて、「嬲」と「嫐」という字は、常用漢字ではないのに、どうしてパソコンやケータイで打つことができるのでしょうか。
 まず「嬲」は、活字媒体で使用されることが比較的多かったために、1978年にJIS漢字を決めるときに入るべくして入りました。
 この字は、地名にも使われています。秋田県では横手市大屋寺内に字「嬲沢」(なぶりざわ)、埼玉県でも秩父郡小鹿野町般若に字「嬲谷」(なぶりや 不動産登記では「字ナブリヤ」)があり、後者は大学院のゼミ生が実地で使用を確かめてくれました。

 一方の「嫐」のほうは、実は、すんなりと採用されるような字ではありませんでした。そこには『謎の漢字』という中公新書に詳述したように複雑な経緯があったのですが、そのエッセンスを述べると次のようになります。
 「嫐」は、前述のとおり歌舞伎の世界では、市川家の十八番(オハコ)の一つに「うわなり」と読ませる演目があり、国語辞典や漢和辞典などにも載せられていました。しかし、JIS漢字を選ぶ際に、その事実は一切考慮されませんでした。それとは別に、熊本県の宇城市小川町西海東にある「嫐迫」で「わなんざこ」と読む小さな通称地名があったことによる採用だったのです。
 京都や江戸で言う「うわなり」が、熊本で中国地方・九州地方の方言訓をもつ「迫」(さこ)と接合し、さらに訛って「わなんざこ」という地名ができていたようです。その漢字表記が「嫐迫」で、そこでは実際にそういう修羅場のような状況を呈する結婚式が過去にあったことが由来だ、と地元で伝えられています。
 この小さな集落の名前を表すためだけに、「嫐」という字は、JIS漢字に採用されたのです。これは、地域色に着目すれば方言漢字(地域字種、地域字体、地域用法)とも位置付けることができます。この事実は、3メートル以上もあった地名の資料を1枚ずつ眺めていって、やっと突き止めることができたものでした。

 歌舞伎の外題がパソコンやケータイに入力できるのも、初めに紹介したようにパソコンに「ナブラレタイ」と打ち込めたのも、皆この「ワナンザコ」という1か所しかない地名のお蔭に他ならなかったわけです。小さな変わった地名を廃止せずに大切に使い続けていたことが、日本の歌舞伎という文化をデジタルの世界で表現することに役立っていたわけです。


 「男」をパーツとする字自体が少ないこともあってか、日本ではこの「嬲」という字はかなり関心を引くようです。実際に、戦後、あちこちの漢字クイズの類でこの読み方が出題されてきました。この字に対して、「もてる」とか「ハーレム」といった当て読みによる誤答、珍答が出現することもごく一部でですが知られていました。

 数年前に、先の『謎の漢字』を上梓したご縁から、女優の浜美枝さんが司会をされるラジオにゲストで出演した際に、アナウンサーの方がそこに記されている「嬲る」という字を見て、「ブルゾンチエミる」と読みました。

 大学生たちに、この字の読み方を当ててもらうと、やはり同じように答える人がいます。テレビで活躍された方の芸名と大ヒットした芸に基づく当て読みで、日本で紹介すると今時らしいと、あちこちで面白がられます。

 ほかには、字面から「キャバクラ」「ホストクラブ」といった回答もよく出てきます。男尊女卑は当然のこととして旧弊となり、様々な面で男女平等を目指す世の中に変わりました。とはいえ、まだまだ漢字の伝統に則した男性視点の読み方もあれこれと出てくるのです。意外なことに、女性からもそうした読み方がまだ続々と現れます。さらに学生など色々な人たちからは、もっとびっくりする単語も、男女を問わず書かれてくるものです。

 学部の学生が、同年代の日本人の男女に「嬲」と「嫐」の読み方について、アンケートをとりました。その結果、男性は、恋愛的な視点で読みや意味を推測し、一方、女性は、間に挟まれている女・男の特徴を表していると推測する、また男性の方がマイナスが強い推測になりやすく、男性の特徴よりも男性の状況を見出すといった傾向を見出しました。「男」「女」というパーツの組み合わせなので、この時代にあってもジェンダーによる差も生じやすいようです。

≪参考リンク≫

・『謎の漢字』(中央公論新社) はこちら
漢字ペディアで「嬲」を調べよう

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はじめに
中国での「嬲」と「嫐」
「嬲」と「嫐」
平安・鎌倉時代の「嬲」と「嫐」
南北朝時代から江戸時代までの「嬲」と「嫐」
⑥地名とJIS漢字の「嬲」と「嫐」
フランス人の「嬲」
フランス在住のルーマニア人の「嬲」
スペイン人、スイス人、ドイツ人ほかの「嬲」と「嫐」

≪著者紹介≫

笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
東京都出身。国立国語研究所主任研究官等を経て早稲田大学教授。
博士(文学)。専門は言語学(文字・表記論)。日本漢字学会理事、日本語学会評議員。
単著に『国字の位相と展開』(三省堂 金田一賞、白川賞)、『日本の漢字』(岩波書店)、『漢字ハカセ、研究者になる』(同)、『方言漢字』(KADOKAWA)、『謎の漢字』(中央公論新社)、『画数が夥しい漢字121』(大修館書店)、『方言漢字事典』(研究社)、『美しい日本の一文字』(自由国民社)等。デジタル庁の行政事務標準文字、経済産業省のJIS漢字、法務省の人名用漢字・戸籍のフリガナ、文化庁の常用漢字、NHK放送用語、日本医学会用字、漢検奨励賞、『新明解国語辞典』、『三省堂 中学国語』、『光村教育図書 小学新漢字辞典』、『日本語学』(明治書院)等に関する委員を務める。

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