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「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容③ ~「嬲」と「嫐」~

「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容③ ~「嬲」と「嫐」~

筆者:笹原宏之(早稲田大学教授)

 前回は、中国で「嬲」がどのように生まれたのか、字源についてお話ししました。今回は、「嬲」と「嫐」が中国各地でどんな使われ方をしてきたのかを紹介していきます。

3 「嬲」と「嫐」

 「嬲」に続けて、さらにその異体字として「男」「女」の数と配置を換えた「嫐」が現れます。

 女2人が男を挟む「嫐」という字は、「嬲」より遅れて、字書の『龍龕手鑑』が引く『玉篇』などの字書に現れているところから、宋代以前から用いられることがあったようです。ただし、それらの字書の説明を読んでも、「嫐」と「嬲」とを意味の区別をして用いたという形跡はなく、互いに単なる異体字の関係にすぎませんでした。「男」「女」が数は問題ではなく、1対2でも2対1でもとにかく組み合わさっていることに、意味をもたせていたようなのです。

 なお、これらの類に、「」「娚」「」などの字もあり、「嬲」や「嫐」の異体字とされるものもあったのですが、ここでは割愛します。

 これらは、中国で現在、標準語とされる普通話においては、すでにほとんど使われなくなっています。

 しかしかつては、通俗的な文学、とくに方言で記される文学を中心に、新たな口語や各地の方言を表記するために転用されることも起きていました。

 香港や広東(カントン)省、さらに各国の華僑社会で根強く使われている広東語では、怒るという意味のnao(ナオ)という動詞を表記する字として、「嬲」が清代より使用されており、今ではすっかり定着しています。

 また同じ南方では各地で使用され続けています。留学生たちによると、地元の武漢では、「嬲」という字が相手を罵る語句を表記する際に一部でひっそりと使われているそうです。

 また別の留学生によれば、出身の広西(カンシー)チワン族自治区(広東省の西隣)では、オシャレに着飾りすぎるという意味で、この「嬲」を使うことがあるとのことです。

 ほかにも、方言辞典の類を見ると、各地で種々の用法を派生させています。

 たとえば、『全国漢語方言用字表稿』を開くと、「嬲」は広西省の南寧では恨む、福建省の梅県などでは休むといった意味で、「嫐」も南方各地ではありますが、それらと違って、みめよい(※)という意味で使われているそうです。

 それらは、派生的な用法や、おかしな字面から「望文生義(※)」させた字義でなければ、各地で独自に造字した結果なのでしょう。全く新しい用法、古めの文献から復活させた用法もあれば、地下水脈のように民衆の間で受け継がれてきたものもありそうです。

 「嬲」と「嫐」は、中国では以上のような経緯をもち、また現状を呈する漢字でした。

※みめよい・・・顔立ちが美しい。器量が良い。(『デジタル大辞泉』)
※望文生義(ぼうぶんせいぎ)・・・文字の字面を見ただけで意味を深く考えず、前後の文章から見当をつけて、文章や語句の意味を勝手に解釈すること。(『三省堂 新明解四字熟語辞典』)

≪参考リンク≫

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「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容(全9回)

はじめに
中国での「嬲」と「嫐」
③「嬲」と「嫐」
平安・鎌倉時代の「嬲」と「嫐」
南北朝時代から江戸時代までの「嬲」と「嫐」
地名とJIS漢字の「嬲」と「嫐」
フランス人の「嬲」
フランス在住のルーマニア人の「嬲」
スペイン人、スイス人、ドイツ人ほかの「嬲」と「嫐」

≪著者紹介≫

笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
東京都出身。国立国語研究所主任研究官等を経て早稲田大学教授。
博士(文学)。専門は言語学(文字・表記論)。日本漢字学会理事、日本語学会評議員。
単著に『国字の位相と展開』(三省堂 金田一賞、白川賞)、『日本の漢字』(岩波書店)、『漢字ハカセ、研究者になる』(同)、『方言漢字』(KADOKAWA)、『謎の漢字』(中央公論新社)、『画数が夥しい漢字121』(大修館書店)等。デジタル庁の行政事務標準文字、経済産業省のJIS漢字、法務省の人名用漢字・戸籍のフリガナ、文化庁の常用漢字、NHK放送用語、日本医学会用字、漢検奨励賞、『新明解国語辞典』、『三省堂 中学国語』、『光村教育図書 小学新漢字辞典』、『日本語学』(明治書院)等に関する委員を務める。

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