歴史・文化難読漢字

「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容⑨ ~スペイン人、スイス人、ドイツ人ほかの「嬲」と「嫐」~

「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容⑨ ~スペイン人、スイス人、ドイツ人ほかの「嬲」と「嫐」~

筆者:笹原宏之(早稲田大学教授)

9 スペイン人、スイス人、ドイツ人ほかの「嬲」と「嫐」

 前回紹介した「嬲」に対するパリでの衝撃的な読み方から2年を経て、今度はスペインの日本語教師会に招いていただきました。そこでは、日本語教育に携わる鈴木裕子先生が事前にマドリード自治大学での模擬講義を手配してくださいました。
 そこで例の字を示して意味を尋ねてみたところ、いつもにこにこしている男子学生のパブロ君が「嫐」に対して、

  しあわせ

と書いてきました。これもまた東アジアにおいてはまず出てこない素直(?)な読み取り方でした。
 その回答を紹介すると、クラスじゅう大笑いに包まれました。
 他には、

  トランスベスタイト

つまり異性装者(女装者、男装者)という回答もあり、これは初めて見たものでした。あとは妻という答えが2人、これは日本の「うわなり」と発想に共通点がありそうです。この女2人と男1人という状況は問題かと聞くと、やはり問題だとのことで、また笑いが起きました。女らしい、大事な女という回答も寄せられました。
 一昨年のパリで出た「嬲」に対する「まもる」という回答を紹介すると、さすがのスペイン人たちも驚いていました。同じラテン系といえども、ピレネー山脈を越えたことで、国民性のようなものが現れたのかも知れません。

 そして、コロナ禍がいくらか落ち着いた2023年の春に、日本語教師のヴァルティなぎさ先生にスイスにお招きいただきました。そこでは、小幡谷友二先生がお勤めになっているスイスのジュネーブ大学に赴いて模擬講義をさせていただき、漢字の数々の新たな読み方や意識に驚かされました。奇しくもこの大学は、一般言語学で文字を排除したあのソシュールと所縁の深い大学です。フランス語圏で、パリのフランス語は汚いと評する人もいました。学生たちは、例の2つの字を見てそれぞれの意味を予測して、フランス語で書いてきました。

    嫐 Jalousie       嫉妬  男子・女子ともに
    嫐 fliert        プラトニックな関係、恋のまね事 男子
    嬲 garçon manqué  おてんば娘 男子

 イタリア系の女子からは、次の回答が目に付きました。

    嫐 flirt, drague    女あさり

 さらに、スイスの日本語教師会でお世話になったブランド那由多先生が、ドイツのベルリンの日独センターでオンライン社会人クラスを受けている20代後半~60代の男女6名(かなり複雑な会話ができるレベル)に聞いてくださいました。

 「嫐」には、

    Chromosomanomalie(染色体の正常な構造や数が変化すること) 男性か

といった、聞いたことがなかった回答が現れました。やはり医学的、化学的で、理屈っぽいのでしょうか。また、

    Mobbing(鳥類などが、えじきとなるものや、時には天敵に対して、仲間で集まって襲う行動:人が三人集まるとろくなことがない)

という冷めた意見もあったほか、

    Hahn im Korb(かごの中の雄鶏) 女性

というドイツの慣用句は、複数の女性の中にただ一人男性がいて、いい気分になっている事だそうです。
 貴重な活動の報告がありがたく感じられました。ドイツ語圏でも、初めての実践がなされ、ラテン系の世界とは別種の興味深い解釈がいくつも出てきました。

 教えていただいた学習者たちの、イメージの中の紋切り型のドイツっぽさ、理屈っぽさが濃いめの解釈を、許可を頂き早速Facebookで少し紹介させてもらったところ、それを読んだスイスはチューリッヒのヨシコ・メルキ・イワツ先生がレスポンスを書き込んでくださいました。やはりドイツ語圏のメルキ先生の日本語学校では、ふだんの教室の雰囲気にもよるのか、

  ハーレム状態

という回答が出たそうです(「ハーレム」は日本でよく出てきます)。

 日本語を学び、使うヨーロッパの方々が、日本人が生みだした国訓(日本産の字義)の着想の範囲を超えて「欧訓」を生みだし、周りに広めて定着させてくれる日が来るかもしれません。

 思えば、漢字は、古代の中国人、それもほとんどすべて男性が作り出した文字でした。殷代の甲骨文字は、王の問い掛けと、帝の声を聞くという貞人(巫)の発する神がかった語を、刻人(書記)が自分たちの漢字で彫り込んだもので、すでに男性の視線が色濃いものだったのです。
 後代には、女性も文芸作品などを生みだしますが、識字率自体にかなりの格差があったことが知られています。中国史上、唯一の女帝である則天武后は、「圀」などの異体字を造らせましたが、造字を担当したと伝えられる占い師はやはり男性でした。
 日本の国字や国訓は、それよりはたいてい後の時代に作られた新しいものでしたが、昔の日本では、やはり同様にその多くが男性によって作り出した文字や用法がほとんどであったのです。近世の絵抄本『小野篁歌字尽』(乾善彦「絵抄本『小野篁歌字尽』影印と解題」『国語文字史の研究』13 2012)にある、

  嬲 なぶる あふる
  嫐 うわなり ねたむ なやむ

を引いておきましょう(音読みは省く)。前者は、「溢る」ではなく「煽る」の意とみられます。

 こうした日本での字の見方と使い方に対し、現代の西欧の若者たち、とりわけフランス在住の女子学生が生み出したそれには、旧来の東アジアでの着想とは完全な対照性を見いだすことまでできました。日本語の漢字に対して、新しい風が吹き込まれる、そんな可能性を感じる出来事だったのです。 (終わり)

≪参考資料≫

笹原宏之『謎の漢字』 中公新書 2017
笹原宏之「フランス人の漢字意識」「スペイン人の漢字意識」連載 『日本語学』 明治書院 2017.7-2018.12 

≪参考リンク≫

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はじめに
中国での「嬲」と「嫐」
「嬲」と「嫐」
平安・鎌倉時代の「嬲」と「嫐」
南北朝時代から江戸時代までの「嬲」と「嫐」
地名とJIS漢字の「嬲」と「嫐」
フランス人の「嬲」
フランス在住のルーマニア人の「嬲」
⑨スペイン人、スイス人、ドイツ人ほかの「嬲」と「嫐」

≪著者紹介≫

笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
東京都出身。国立国語研究所主任研究官等を経て早稲田大学教授。
博士(文学)。専門は言語学(文字・表記論)。日本漢字学会理事、日本語学会評議員。
単著に『国字の位相と展開』(三省堂 金田一賞、白川賞)、『日本の漢字』(岩波書店)、『漢字ハカセ、研究者になる』(同)、『方言漢字』(KADOKAWA)、『謎の漢字』(中央公論新社)、『画数が夥しい漢字121』(大修館書店)、『方言漢字事典』(研究社)、『美しい日本の一文字』(自由国民社)等。デジタル庁の行政事務標準文字、経済産業省のJIS漢字、法務省の人名用漢字・戸籍のフリガナ、文化庁の常用漢字、NHK放送用語、日本医学会用字、漢検奨励賞、『新明解国語辞典』、『三省堂 中学国語』、『光村教育図書 小学新漢字辞典』、『日本語学』(明治書院)等に関する委員を務める。

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