歴史・文化難読漢字

「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容⑧ ~フランス在住のルーマニア人の「嬲」~

「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容⑧ ~フランス在住のルーマニア人の「嬲」~

筆者:笹原宏之(早稲田大学教授)

8 フランス在住のルーマニア人の「嬲」

 パリにあるフランス国立東洋言語文化学院(INALCO)に招いてくださり、講演や講義の準備などでお世話になったデロワ中村弥生先生によれば、パリジェンヌは、概して互いにあまり友達にならず、田舎の子か外国人と一緒にいるか、男子を何人か従える、そんな傾向が地元ではあるのだそうです。だから、むしろ「嬲」は、パリジェンヌそのものと感じる、との実感を伺いました。

 実は、パリでこの字に「まもる」と書いたのは、ルーマニアからきていた女子留学生でした。しかし、すでにパリで暮らしているので、広い意味でのパリジェンヌといえるということです。フランスとスペイン(後述します)とルーマニア(語源はローマ)は、いずれもラテン系の国でありながら、回答には各々に個性も現れるようです。

 私はこれまで、中国や日本を中心とする文献を大量に見てきました。また、東アジアの人たちと、漢字についてたくさん意見を交換してきました。しかし初めて、漢字が内在している新たな可能性というものを、遠く離れたパリという異文化のフィールドに赴くことで、見つけることができたのです。

 その後、帰国してから、福島県に赴いて講演をしたときに、この話を紹介し、こういう回答には、軽々にバツなど付けられない、そのように話しました。すると、郡山市在住の私より年上の女性たちはうなずき、そして拍手を送ってくれました。
 ちょうどNHKの番組である「視点・論点」に出演の依頼が届いたので、そこでも話の末尾に、パリでの「嬲」の読み方との出会いについて紹介してみました。早朝に放送される、カメラワークもBGMもスタジオの余分な飾りもない質素で堅実な番組で、視聴率が仮に再放送を合わせて1%くらいだったとしたら、100万人ほどの視聴者がこの西洋人の斬新な読み方に触れたことになります(本当にその全員がこの読みをそこで知ったとしても、国内に住む1億2000万人余りは、まだ知らないわけですが)。
 すると、早朝から若者たちと見られる人たちが大いに驚き、反応してくれました。Twitter(ツイッター 現X)で、パリジェンヌが「嬲」を「まもる」と解いたという番組を見たという書き込みが何十件も続きました。そして、その内容を伝聞のように書いて感動を表明するツイートも流れ、それに対してリツイートが4万件、「いいね」が6万件を超え、大いに話題となったのです。

 その時(2017年頃)の一件をめぐって、ほとぼりが冷めてからツイッター検索をかけてみた結果、2009年の時点で「嬲る」を「まもる」と読ませていた日本語のツイートが見つかりました。人類の発想は有限であり、別個に発生する偶然の一致は、当て読みにも起こることがよくわかります。
 大学の講義を履修する多くの受講生も、それらしいツイートが回ってきて読んでいたと話していました。前期の講義のときに稿者から直接聴いていた話と同じだったので、もしやと思ったら、まさかそれでびっくりした、とも話していました。
 さて、上記のツイートは、そのように拡散し続けたのですが、出典を記していなかったために、解いた意味に脚色や誤伝が発生しました。わずかな日数の「伝言ゲーム」を経ただけで、「イタリア男」がそのように読んだという話にまで変わっていたのです。そればかりか、あらぬ誤解、曲解、いらぬ疑いまで呼び起こし、出口の見えない論争まで巻き起こしてしまいました。
 大抵のメディアにおいて実際の情報は、少し時間が経つと正確には分かりにくくなるものなので、記録を兼ねてもう少しここに記しておきましょう。その後になって、ツイッターでは、私が話したテレビの公式サイトの文字起こしのURLを示し、これが出典だと、安易な伝聞による流布に反省を促すようなメディアリテラシーに富むツイートがなされ、さらには、雑誌『日本語学』での稿者の連載と関連がある話なのだ、ときちんと記すツイートも現れました。
 しかし、こうした誠実な書き込みに対しては、リツイートや「いいね」の数は3桁、いや2桁になれば多い方で、あまり数が伸びないものです。出典情報を伴わない個人の感想レベルのもののほうが、気楽で共感を得やすく、「バズる」傾向にあるようで、SNSのもつ正確な情報に対する弱さと伝播する際の怖さが感じられました。

 多くの人は、出どころが不明な情報を気軽なものとして受け入れ、楽しむ傾向があるようなのですが、古来の民話も伝承も、実はこのように耳に入りやすく心に残りやすい話が広まったものかもしれないと思われてきます。
 ちょうどその頃、テレビの取材でも、番組のコーナーでは情報の出所については「ネットによれば」という示し方をしたい、そのうえURLは出さないという怪しげな打診が来ました。そういう信頼されがちなメディアであっても消費されるだけの内容のものは、大学のレポートなどでは不可となる、と伝えざるをえませんでした。

≪参考リンク≫

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「嬲」と「嫐」の各地での受け入れと変容(全9回)

はじめに
中国での「嬲」と「嫐」
「嬲」と「嫐」
平安・鎌倉時代の「嬲」と「嫐」
南北朝時代から江戸時代までの「嬲」と「嫐」
地名とJIS漢字の「嬲」と「嫐」
フランス人の「嬲」
⑧フランス在住のルーマニア人の「嬲」
スペイン人、スイス人、ドイツ人ほかの「嬲」と「嫐」

≪著者紹介≫

笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
東京都出身。国立国語研究所主任研究官等を経て早稲田大学教授。
博士(文学)。専門は言語学(文字・表記論)。日本漢字学会理事、日本語学会評議員。
単著に『国字の位相と展開』(三省堂 金田一賞、白川賞)、『日本の漢字』(岩波書店)、『漢字ハカセ、研究者になる』(同)、『方言漢字』(KADOKAWA)、『謎の漢字』(中央公論新社)、『画数が夥しい漢字121』(大修館書店)、『方言漢字事典』(研究社)、『美しい日本の一文字』(自由国民社)等。デジタル庁の行政事務標準文字、経済産業省のJIS漢字、法務省の人名用漢字・戸籍のフリガナ、文化庁の常用漢字、NHK放送用語、日本医学会用字、漢検奨励賞、『新明解国語辞典』、『三省堂 中学国語』、『光村教育図書 小学新漢字辞典』、『日本語学』(明治書院)等に関する委員を務める。

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